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この先一方通行。(SS)

 この路地を使う人はそんなにいない、地方都市のそれなりに賑やかな駅前から一つ外れたまるで側溝のような道。この路地は都市計画の余白として吐き出されたように、なんの意味も持たない。大して近道でもないし、昔この路地で殺人事件が起こったことがあるくらい安全性も低い。だから誰もこの路地は通らないのだ。
 しかし私はよくこの路地を通る。なぜ?と言われれば、よくわからないけれど、たぶん、一つ挙げるとすればそれは誰も通らないからだろう。まぁなんにせよ動機なんてものはどんな出来事であっても後付であるのだからこれくらいの理由で十分だ。

 この路地を通るとき私はどこか時代を間違えた感覚に襲われる。少し黴臭い古いコンクリートの匂い、光も当たらずいつも湿気ったアスファルトはまるで腐った烏の死体のような臭いを漂わせる。もしかしたらここで烏の殺害事件でもあったのかもしれない。猫でも蛸でも自殺するくらいだから、烏の殺人事件だってあるはずた。
 そして、私がこの路地を抜けるとき、私はしっかりとした現実に帰ってくる。ただ路地を抜けた先は違った意味で腐敗臭のする世界だ。皆もう鼻が馬鹿になっている。

 今日は日曜日だった。私は一人でまたこの路地に来ていた。私の家は割にこの繁華な駅から近いので、私はよくこの辺まで来るのだ、そしてついでにこの路地を通る。
 私は駅の周りを漂う海月のような人たちを俯瞰し、それから少し辺りを見渡し、私のことを見ている人がいないことを確認した。これは儀式であり、それから確認だ。

「私が今からすることは誰にも見られてはいけないことだ」

「人は大して他人に興味を持たない。我が身のことしか知らぬ。知りたくもない。」

「そして、私もそれは変わらない。私は私に課した掟のように、私は私というアイデンティティと世界と信念をこの右手に握り、左手はしっかりと開いて困難に立ち向かう準備をする」

 私は心の中で呟き、それから異世界の入口を跨いだ。このボーダーラインを越えた瞬間、私は私から逸脱し、全体としての私になる。つんざくような臭気と湿気と届かない陽光、それら全てが私となり、私は路地の一部となる。それは私の世界であり、他の誰の世界でもない。

 私が緩慢にその路地を半分くらい進んだとき、それは私の視界に突然現れた。それは一匹の猫だった。いや最初猫とはわからなかったほど小さい猫だった。ダンボールに包まれスヤスヤとまるでここが安全地帯であるかのように眠る猫、そしてその横には一匹の豚が横たわっていた。これは亡骸だ。新鮮な豚の死体。

 一匹の新鮮な命と一匹の新鮮な死、私は思わず吐き気を催し、そのまま私は嘔吐した。口を覆った手の隙間から異臭と胃液が溢れていく、湿ったアスファルトに甘熟したバナナのような胃液が斑に色を付け、そのマーブル模様はまるで黄疸だ。そして黄疸は命を奪う。人から命を奪う。私から世界を奪う。私から物語を奪う。世界を奪われ、物語を奪われた人間はもはやレーゾン・デートルを失う、いや存在そのもの、実在を失うのだ。まるでマジックのように初めからそこにないもの、仮想になってしまうのだ。

 私は胃液を出し切り、もう吐くものがなくなったのでその分嗚咽と涙がより一層強くなる。それは何かを埋め合わせるようだ。そして遂に嗚咽も無くなり、涙も枯れる。時間はすべてを置き去りにしていく。 
 私は大きく深呼吸をし、死臭と腐臭とそれから負の空気を吸い込み、光合成するみたいに希望を吐き出した。それは光合成のように必要な作用だ。私にとっても、「世界」にとっても。それから左手をきつく握りしめ、右手を広げた。それと同時に猫は寝言を言うように小さく鳴き、豚は倒れ込んだまま動かない。

 「だれが、よりも、なぜ、よりも、どのように、よりも、一番重要なのはこれは一体何なのか。それが重要だ。」

 私はその小さな頭で答えを捻り出す。そして私は猫を豚の口の中にいれた。猫は私が持ち上げた瞬間起きたらしく、また小さく鳴いた。そして私が豚の口の中に猫を入れると、猫は突然狂乱しそのまま豚の口を無惨な姿に変えた。猫は新鮮さを失い、豚もまた新鮮さを失った。そして私も新鮮さを失っていく。
 その瞬間、私は自分の身体が作り替えられていく音を聞いた。カチカチでも、ガチャガチャでもない。それは紙に何かが擦れる音、それからその紙が破られていく音だ、スラスラ、ビリビリ。

 私はそのまま猫と豚を置き去りにしてゆっくりとその場を離れた。不思議なことに3歩進んで振り返るとそこにはもう何もなかった。そしてそれを認めると私は内なる衝動から走り出した。無我夢中で走り出した。スピードはぐんぐんと上がっていき、周りの風景、臭いは私の意識から外れていく。私が今感じていることは風と実在だ、言い換えれば現実と生。
 
 気がつくともう目の前はもう路地の終わりだった。走るとこの道は意外と短いということを思い知らされる。私は一度後ろを振り返りそこに何もないことを確認し、歯ぎしりする。そして私は一歩を踏み出す。
 
 そうして私はこの現実的な世界に帰ってくる。そしてこの現実的な世界からは腐敗臭が失われていた。

 私は一つのことを思い出した。今日は私の20歳の誕生日だった。家ではきっと家族がせこせこと私の誕生日を祝う準備をしているだろう。腕時計を見ると18:00。もういい時間だ、帰ろう。
 
 …たぶん、私はもうあの路地に行くことはないだろう。そして、そこで起こった不思議な出来事もいつか時間に置き去りにされていくのだろう。私は陽光に照らされた瀟洒なビルを見てそう確信した。

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