誰かにとっては面倒くさいけど、誰かにとってはうつくしいひと

面倒くさいひとだ、と自分で自分のことをいつも思う。周りに合わせてふんふん、と言っておけば済むものを、笑っておけばいいものを、それが出来ない。他の女の子みたいに、「すご〜い!さすが!」なんて言っとけば、上司は機嫌良くしてくれるのに、それが出来ない。システムに従っておけばいいものを、それに対していちいち疑問を持つ。これはどういうことなのか、なんでこうなったのか、とひどいときには全ての理由と過程を聞いたりする。大抵は、適当に切り上げられたり、ごまかされたり、他の人に振られたりする。多分そのひとにとっては全然関係なくて、どうでもよくて。けれど、わたしはなぜか、それを人一倍気にしている。

こういう時、わたしは通勤ラッシュの改札口を思い出す。改札機でICカードをピッ、ピッ、と通していく、工場のラインのような、スムーズな流れ。それを定期券の期限切れか何かがあって、大きな音で警告されて、一時的に流れを止めるひと。向う側に通れると疑って仕方ないものを、何らかの原因があって通れなくなる。そうすると、どんなひとでもイライラするものだ。自分はどちらかというと、なぜかそのラインを止めてしまう側の、そのタイプ。一時的に流れを止めると、後ろから舌打ちされているように感じる。職場でもそんな感じで、誰かをイライラさせているのだと思う。システムのレールに乗れない自分は、間違った人間の烙印を押されたようで、悲しくなる。

でも面倒くさいほど、時々やらないといけないことがあるような気がする。流れを止めても、時間をかけても、それとじっくり向き合う必要があると思ってしまう。そこが大事なときも、きっと、ある。他人に対して駄目なものは駄目と言ったり、「それは違う、間違っていると思う」と人に伝えたり。伝えてどう捉えるかはその人の問題だけど、なあなあで終わらせたらだめなことだって、時にはある。それが空気を潰すことになるのは重々承知だ。やってしまうと、「そんなことしてくれるなよ」、という空気で、その空間がぶるっと震えることがあるのも知っている。けれど、そうじゃない時もある。こんな面倒な自分と向き合ってくれるひとを大事にしたいと思う。

…とか、つらつら思いながら、この本を読み終えた。


この小説には面倒なひとしか出てこない。
しかし、その面倒なひとが、面倒なひとたちによって救われていく。百合が坂崎とマティアスに出会えてよかった。最後までこの本を読んでよかった。

わたしはこの小説に出てくる面倒なひとたちが、好きだ。

 

会社のコピー機の前で泣き崩れて退職した百合。彼女につきまとう、姉のことや、過去のこと。最初、百合みたいなひとが、近くにいたら友だちになりたいのか、と考えたけど、友だちになりたくないな、と思った。コピー機の前で泣き崩れたからとか、そんなんじゃなくて、多分自分にちょっと似ているからだと思う。すぐに自分はダメだ、と思うところとか、社会の落伍者だ、と思うところとか。他にもイライラさせられた。でも、最後はちょっと友だちになりたい、と思った。面倒くさいけど、面白い子かもしれない、と思った。

多分それは、坂崎とマティアスのおかげだ。
思い立って行った旅行先の離島のホテルで百合と出会った、バーテンダーの坂崎と、旅行客のマティアス。5年ホテルでバーテンダーをしている坂崎の過去と、マティアスに見え隠れする亡霊。2人に出会うことによって、変化していく百合の姿に、最後は一気に読んだ。
おそらく、坂崎もマティアスも、少し変わったと思う。いや、彼らは変わらないかな。彼らはそのままでもいいかもしれない。彼らの物語は、百合が帰ったあとにあると思う。


本当に大切なひとって、もしかしたら自分のなかにある、違う自分の存在に気づかせてくれるひとなのかもしれない。お金に何不自由ない暮らしをする、百合。今回の旅行も親のお金だ。坂崎とマティアスは、そんな百合自身が自発的に興味を持ち、初めて向き合いたい、と思ったひとたちではないのだろうか。
百合の押し込められた思いを、ほどいていった彼らは、百合が帰ったあと、どんな話をしたのだろう。百合は姉とどう向き合ったのだろう。

もしかしたら、面倒くさい、は愛情なのかもしれない。

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