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noteに頼ってよかったんだ

落ち込んでいる、とこの前つぶやきに残したけれど、コメントくださったり、「話聞きますよー!」って声かけてくださったり、
本当に嬉しかった。


普段からのコメントもスキもとてもうれしいのだけど、もう、本当、ありがとうしか言葉が浮かばないのが悔しい。なんで感謝の言葉はありがとうしかないのだろう。


個人的にnoteって、自分の経験や体験、考えが全部まとまってから書くのがいいなって思っていて、だから結構時間かけて書くことも多いし、頭悩ませて書くこともしばしばある。


書くのならちゃんと書く。
いいものを書きたい。
できるだけそのときのベストのものを書きたい。
答えを自分のなかでキッチリ出してから、書きたいし、それを読んでほしい。


平たくいえば、自分のなかで「完璧な」文章を書くことを目指していたような気がする。


だから、辛くてもそれを乗り越えたときに書こうとか、何かいいことがあるはずだから、何かそのいいことがあってから書こうとか、そんなことを考えていた。


けれど、それって違うのかも、と思うようになった。

それってひとりよがりじゃないのかって。

完璧な文章じゃなくていい。
もっともっと、自由に書いていいのではないか。
まとまらなくたって、いいのではないか。

noteのなかに頼ってみても、いいのではないか。


思い出したのが、交換日記の存在だ。

 ☆


交換日記というのが若い方はご存知かわからないけれど、そういうのがあって、それがものすごく楽しかった。

大人数のときでやったときもあったし、少人数のときでやったときもあったけれど、どれも個性があって、すごく自由だった。

昨日こういうことがあって嬉しかった、けれど今日の体育のドッジボールの授業、怠いわーとか、そういうふつうの生活の話を綴る。

でもそういう中にふとあらわれるやさしい言葉が、とても身にしみたりする。

次の日、学校に行って友だちにノートを渡す楽しみもあった。

授業は嫌い、けれどあの子に会ってノート渡そう、そのために学校行こうって思ったら、頑張れた。

手紙も素敵だけれど、ノートにはページの続きがある。

その続きに、相手が返事をくれたり、新たな物語をつくってくれる。

それがいい。


あのときの文章って、うまいもへたもなくて、完璧を目指した文章じゃなかった。

その人のために、書きたくて書いた文章。
拙いけれど、とても愛しい文章だった。


 ☆

書きながら何かを見つけていく。

そういうのもアリなんだなあと思う。

自分で答えを出すのも大事だけど、書きながら時にアドバイスをもらいながら、答えを見つけていく。


けれど、怖い。
文章は全てがあらわれるときがある。

自分のことをあれこれを曝け出したとき、「こんなこと考えてるなんて」とか、「嫌われるんじゃないか」とか、「引かれるんじゃないか」とか、結構マイナスのことを考えてしまう。


だから多分、完璧な文章を目指していた。
そう思われたくなくて。

でも、もっとnoteのなかに頼ってよかったんだ。

紙のノートにはいないけれど、この画面の向こう側には、見ていてくれる人がいるのだから。

「こういうことも昔あったなあ、懐かしいなぁ」って思える日は絶対くる。それまで、この思いは大切にしてあげても良いのだと思う。

ありがとうございます。文章書きつづけます。