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わたし、、、

幼い頃から、両親や周りの人に、「あなたは恵まれているのよ」と言われて育った。
確かに間違いではないと思う。
お金持ちではなかったけれど、それなりに教育を受けさせてもらえたし、衣食住に不自由せずに育ったと思う。
けれどもなんだろう、「恵まれている」という言葉に、正直時々苦しめられる時がある。
見る人から見たら、わがままなのだと思う。
贅沢なのだと思う。
恵まれているのに、苦しむなんて。
けれど、ある程度不自由なく育っても、悩む時は悩むし、落ち込む時は落ち込んでしまうのだ。
それはいけないことなのだろうか、とずっと自分の中で疑問に思いながら、
「あなたはマシなんだから、我慢しなさい」とか、「世の中にはもっとつらい人がいるのに」と言われると、ああ、こういう風に苦しむことはいけないことなんだな、恵まれているのにこんなことを思って苦しんでしまうわたしがわがままで悪いんだな、と思って、もわっと浮き上がる違和感や思いに、ギュッと蓋をしてきた。

こんなことを、自分は感じてはいけない。

成長における早い段階で、そんなことを思うようになってしまったからか、今でもわたしは誰かに悩みを打ち明けたり、相談したり、頼ったりすることがなかなかできない。「どうせ誰にもわかってもらえない」という気持ちが先行してしまうのと、

…怖いのだ。

話をただ聞いてほしいだけなのに、それを否定のような言葉で返されそうで。打ち明けて、傷つくのが怖いから、自分でなんとかするしかない、と思ってしまう。そして抱えきれなくなって、パニックに陥ってしまう。

 ◇


昨年の夏ぐらい、西加奈子氏の『i』という小説を買った。



もうすでに夏に2回ぐらい読み返していて、本のページも付箋だらけだ。

主人公のアイは、シリアから養子として裕福なアメリカ人の父、そして日本人の母のもとへ迎えられる。しかし、アイは自分の「恵まれている」という立場に罪悪感を抱き続け、ノートに死んだ人の数を書き続けている。

それで、この文庫本に収録されている又吉直樹さんと、西さんの対談でこのようなことが書かれていた。

「私自身は親の愛を疑わなかったんです。でもあるとき友達と話をしてたら、その子すこくデリケートで、この人たち、なんでこんな私によくしてくれるれるのかなって思っていたんだって。実の親なんですよ」p315
「その子は、親が可愛がってくれるのはそういうシステムだからだと思っていたんですって。驚いたと同時に、親の愛を疑うことって、自分のアイデンティティも疑うんだろうなって」p315


うわあ、なんかわかるかも、と思った。わたしもこの西さんの友人みたいに、なんでこんな親切にしてくれるんだろうと思っていたし、わたしを可愛がってくれるのは親という立場上だからだと思っていたし、というか、今でも多分思ってしまっている。

だからだろうか、ここでいうアイデンティティがないというか、わたしには全て誰かの許可なしで動いてはいけない、という思い込みがある。

怒りたいとき、誰かに「わたし、怒っていいですか」と聞きたくなる。
泣きたいとき、誰かに「わたし、泣いてもいいですか」と聞きたくなる。
笑いたいとき、誰かに「わたし、笑ってもいいですか」と聞きたくなる。

実際には聞かないけれど、その場の雰囲気を見て、人からの許可が得られたかな、というとき、初めて感情という形で表に出せる。

でもこれ、多分間違っているんだよな、とも思う。これってよくないな、と思っていて、じゃあどういう風に出していったらいいのかなあ、自分に喜怒哀楽を表に出したり、話したりする権利はあるのか、許されるのか、とひとりで考えてしまっている。

ちなみにこのあとの対談で、又吉さんがこんなことを言う。


「アイちゃんは確かに恵まれている。でもそういう人を守ってくれる表現って意外と少なくないですか?虐げられる人は、もちろんしんどいけれど、恵まれている人は悩んだらあかんような風潮もあるじゃないですか。『お前ぐらいで文句言うなよ』って永遠に言い続けられる、みたいな。人それぞれの悩みや苦しみって、数値化して比べられない。だから自分の痛みはきちんと痛みとして受け止めながら周りの人の気持ちも理解できるようになればいいんだけど、今、逆に行ってるじゃないですか」p315


これを読んで、ああ、痛いときは痛いって、他の人は痛くなくてもわたしは痛いって思っていいんだな、と思った。と同時に、恵まれていても、悩んだり苦しんだりしてもいいんだなあ、と思った。ずっとそれをやってこなかったから、よくわからないところもあるけれど、少しずつ気持ちの蓋をあけていっていいのだろうか。誰かの許可なく、泣いたり、怒ったり、笑ったり、話したり。そうやって気持ちを出していっていいのだろうか。出して、相手の気持ちも理解できるようになることが、コミュニケーション、なのかな。
だとしたら、やっぱり少しずつでもいいから、コミュニケーションをとれるようになりたいな、と思う。


この小説は、よしもとばななの『キッチン』の次に大切な小説になった。

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