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良い、正しい、美しいは繋がらない
「良い写真」って何だろうな、と時々考える。
先日某写真家のパワハラ問題について話題になっていて、告発した元モデルの方の記事を目にしたのだけれど。搾取について綴られた、気持ちが沈むような文章を読んだ上で眺めても、それでもまだ。そこに掲載されている写真は、やはり美しくて。
美しさというのは、正しさとは無関係なのだなと感じさせられた。
美と善悪は別の尺度の問題だ。著名な写真家だから才能ある人物だからといって、そういった行動が許される訳ではないと感じている。だけれども、美しい物はやはり美しい。
しかし美しい写真が良い写真か、というとまたそういう訳でも無い。
芸術的価値もへったくれもない、他の誰にも良さがわからない写真であっても。写ったもの、撮り手の思いなどによって誰かにとっての「良い写真」になり得ることはある。
結局は各々の価値観に依るしかない、そういうものなのだろうか。
写真は自分の世界の見え方だ。それを「どう他人に伝えられるか、差し出せるか」が良い写真の基準ではないか…と思うこともある。しかしその一方で「幼い自分を抱いた母が、花の前に立っている」ただそれだけの何の変哲もない写真が、他のどの1枚にも負けないくらいに自分にとって良い写真であったりもするのだ。
理性での、頭での評価ではない。思い入れや感傷、そういった心を揺らしてくる感情的要素というのは美しさ以上に抗いがたい物がある。
もちろん理性で要素をあげつらうことはできるのだけれども、そうやって並べれば並べる程に無味乾燥としたものに変化して。写真を眺めながらぽつんぽつんと頭に浮かんでくる断片的な言葉の方が、よほど心情に近いような気さえしてきてしまう。
そうだ。総じて、良い写真という物は心を揺らす。
自分の内側に潜む何かと共鳴しては、ゆらゆらと波紋が広がっていく。それは感情と同調しているのかもしれないし、眠る記憶を呼び覚ましたのかもしれないし、自分の美の受け皿に入っている何かを刺激したからかもしれない。
人の内側には経験に記憶に感情に知識…数多の情報が千々に散らばって詰まっている。きっとそこに届き触れることの出来るものが、良い写真なのだろう。
つまり撮影とは。目にした相手の内面に繋がることを祈って、自分と世界の間からそうっと欠片を取り出す作業だ。まさに「Two against the World」、カメラと自分と2人で世界に立ち向かうのだ。何時か、何処かで目にしてくれる、誰かに渡す欠片を掘り起こす為に。
そう考えてみたら、写真が随分とロマンティックな趣味のように感じられてきたし。カメラが無二の相棒のようにも思えてきた。
うん。自分のロマンティック度も、着々と成長してきているようだ。
(「ロマンティックと浪漫の違い」参照)
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