「天下布武」はここから始まった:岐阜城の地形と地質part1【お城と地形&地質 其の八-1】
戦国時代の「城」は、様々な理由でそこに建っています。
その地域を治めるために立地が良いとか、政治的な意味もあるでしょう。
そして何より他大名との戦での「守りやすさ」も重要です。
そのような「お城」を地形・地質的観点から見ていくシリーズ。
今回は岐阜城です!
岐阜城の概要
岐阜城(ぎふじょう)とは織田信長の居城になってから名付けられたもので、それ以前は稲葉山城(いなばやまじょう)と呼ばれていました。
築城は鎌倉時代(1201年)ですが、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三(さいとうどうさん)が城主だった時のようです。
斎藤道三は戦国時代の下剋上(げこくじょう)を代表するような人物で、織田信長の正室である帰蝶(濃姫)の父親です。
つまり織田信長の舅(しゅうと)と言うことになります。
それによって、もちろん織田家と斎藤家は同盟関係になりました。
その斎藤道三は家督を息子の義龍(よしたつ)に譲ったものの、その後に対立し、討たれてしまいます。
これによって織田と斎藤は敵対関係になり、信長が稲葉山城を落とすまでの約10年間は何度も戦(いくさ)をしています。
そんな岐阜城は美濃国(現在の岐阜県南部)南西部の濃尾平野北部に位置しています。
岐阜城は当時美濃国に属していた濃尾平野北西部を見下ろす位置に立地しています。この地域は広い平野と言うだけではなく、木曽川、長良川(ながらがわ)、揖斐川(いびがわ)の3つの河川により水が豊富で、まさに米所として重要な土地です。
岐阜城周辺の大局地形
少し拡大して地形図を見てみましょう。
黒線が現在の県境で、南が愛知県、北が岐阜県です。
青線が主要河川で、概ねでなぞっていますので詳細は正確ではありません。
岐阜城は濃尾平野北縁部に座している山の頂上に建っています。
山地の周囲は平野ですが、長良川と木曽川で挟まれており、東には山地が壁のように連なっています。
つまり大局的に見ると、北と西は長良川、南は木曽川に守られ、東は山地に遮られるような立地条件となっています。
拡大図です。
こうして見ると、岐阜城周辺の平野部に侵入するには、非常に限られたルートしかないと分かりますよね。
岐阜城近隣の地形
さらに拡大してもう少しピンポイントで岐阜城周辺の地形を見ましょう。
岐阜城が建つ山地は、東西約5km、南北約3kmに達する大きさです。
しかし詳しく見ると、岐阜城の南に谷があり、南東と南西の山地とは画されています。
このような感じです。
青で囲った範囲が山地全体ですが、岐阜城まで攻め込むとすれば、金華山(赤点線で囲った山)を登る必要があります。
北は長良川に接していますし、侵入口はさらに限られますね。
金華山は急斜面に囲まれており、頂上の標高は328m。周囲の平坦地との標高差は300m以上もあります。
大名は西の麓(青丸のあたり)に館を構えて住んでおり、そこから城へ上る道も整備されていたようです。
また山の要所には砦も築かれており、まさに要害と呼ぶにふさわしい城です。
周囲は平野に囲まれ、金華山より高い山は北東約3kmの百々ヶ峰だけであり、周囲を見下ろせる風景はまさに絶景でしょう。
信長は美濃国の平定後に「天下布武」を唱えたようですが、その気持ちも分かります。
さて、このような険しい地形は何故できたのか?
そして山城の弱点の1つである「水の確保」はどうなのか?
次回へ続きます。
お読みいただき、ありがとうございました。
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