見出し画像

川の歴史を探る!:川が4本ズラリと並ぶ?part3:鳥取県中央北部中山間地域【地元再発見の小旅行vol.15】

前回は河内川・浜村川・永江川が流れる谷が並んだ地域の、川の流れ方について見ていきました。
今回は、いよいよ川の流れの歴史を探っていきます。

前回は、過去の地形では、それぞれの谷が独立していたのでは?という疑問が生じたところまででした。
では、続きを!

昔の尾根

スーパー地形(カシミール3D)より抜粋
なおカシミール3Dは元データとして国土地理院の「電子国土」を使っているそうです(出典:国土地理院ウェブサイト)
※トップ画像を含め、以下の画像すべて引用もとは同じです。

まずはじめに

まずはじめにお断りなのですが、今回は篠山川・武庫川のように研究者による論文は見つかりませんでした。
ですので、あくまで入手できるデータの範囲内作者が想定したものです。
「なるほど、そうかも知れないね!」くらいの気持ちで楽しんで頂ければ幸いです。

平野の地下を探る

やや下流側になりますが、高速道路沿い地質調査データを確認することが出来ました!(※Kunijibanより)
素晴らしい世の中ですね。元データは国土交通省のもので、引用もとを開示すればオールフリーで使えるとのこと。ありがたいです!

画像2

国土地盤情報検索サイトKuniJibanより

赤丸は全てボーリング調査地点です。
かなり多くのデータがありますが、全体の傾向を確認し、代表的なデータを使いました。
使用したデータは全て「鳥取県西道路」建設のための地質調査で、国土交通省中国地方整備局鳥取河川国道事務所によるものです。

高速道路沿いボーリング位置

これが、選んだデータと、その箇所の岩盤の深さです。
平野を埋める泥・砂・礫などは深い場所で25mを超え、その下に岩盤が確認されています。
岩盤の地質は地質図からの想定通り、花崗岩凝灰岩類でした。

断面図

スーパー地形アプリで作成した断面図に筆者加筆

断面図がコチラです。(※縦の縮尺10倍)
黒い太線がボーリング箇所、赤線が土砂と岩盤の境界をつないだものです。
つまり、赤線が昔の谷地形ということになります。
東の谷が一番広いですが、深さは同じ程度ですね。
平均的には今より10~20mほど谷が深かったと想定されます。

そしてもう1つ気になるのは、西の谷現地盤が高いこと。
平面図を見ても、西の谷は割と下流まで黄色です。つまり標高が高い。
砂丘堆積物の範囲でもないですし、過去に河川から運ばれた土砂が他の谷よりも多いと考えるのが妥当ですよね。

上流の地形も確認

ということで、上流部も断面図を見てみましょう。

画像5

やや上流のこの場所でスパッと断面を切ります!

画像6

おお!綺麗に西から東へだんだんと低くなってますね!
(※縦の縮尺10倍です)

画像8

さらに上流のここの断面は?

画像8

やはり東ほど低いですね!
一番東の谷は末用川が流れている谷で、谷幅が狭いため堆積物がたまりやすく、高くなったのでしょう。

川の流れの歴史

もとは同じような深さの谷が、今では東ほど低くなった。
このような変遷や他の地形も踏まえると、以下のような歴史が想定されます。

①:初期段階(縄文時代以前?)
・旧河内川は上流からまっすぐ北へ流れていた。
・その他の3河川も独立した谷に沿って北へ流れていた。

河川の歴史01

②:第二段階(縄文時代以後?)
・旧河内川の河口に砂丘が堆積したため、水はけが悪くなる。と同時に谷は土砂の堆積で埋まり、上流(南側)の尾根の低い部分と同じ高さになる。
・洪水時をきっかけに旧河内川があふれて尾根を越え、旧浜村川に合流。
・下流で取り残された河川は永江川となる。

河川の歴史02

③:現在(縄文時代以後~現在)
・旧浜村川も同様に、下流で水はけが悪くなり、谷に土砂が堆積して上流の尾根が埋まる
・洪水時をきっかけに旧河内川尾根を越え現在の流路になる。
・下流で取り残された河川は現在の浜村川となる。
・その他の河川も現在と同じ流路になる。

河川の歴史03


いかがでしたか?
このように考えると、浜村川や永江川の源流が判然としない理由として、しっくり来ませんか?
あくまでも想定ではありますが、それなりのデータに基づく考察ですので、当たらずとも遠からずかも知れません。

お読みいただき、ありがとうございました。


この地域の他の記事はコチラ👇

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?