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鬱による焦燥感の正体

焦燥感

鬱になると焦燥感に苛まれる。
私の肌感覚的に、これは他の人も共通している気がする。

この焦燥感というものがなかなか厄介なもので。
胸のあたりが苦しくて、実際息苦しい感じもして、心理的にも身体的にも、とにかく苦しいのだ。

もう人生に何も期待していないはずなのに、なぜ焦燥感が沸いてくるのだろうか。
焦る必要なんてないはずなのに。

「鬱」とは、矛盾した自分の感情と欲求の葛藤だと思う。

もう生きたくない。
人生なんてどうでもいい。
こんな世界に希望なんてない。
そんなことを思っている反面、

ベッドから出られない自分を責めてしまう。
焦ってしまう。
何の成長も感じられず、ただ老いていく自分に焦って自己嫌悪。

心の中がぐちゃぐちゃだ。

顕在意識ではどうでもいいと思っているのに、潜在意識では「違う」と叫んでいるかのようだ。

本来の自分との摩擦

ここで本来の自分をいうものを考えてみる。
これは自論だが、生まれながらにして死にたいと思っている人はいない。
その誕生が望まれたものだろうがそうでなかろうが、産まれた赤ん坊は皆生命力に溢れていると思う。
本能的に「生きたい」と思っているはずだ。

しかし、
物心がつくころになると「死にたい」と思い始める者が現れ始める。
もちろん、大人になるにつれてそう思う者は多くなるだろう。

私も含めたこの「死にたい」「もう生きたくない」と思っている者たちのほとんどは、潜在意識では生きたいと思っているのだと私は考えている。

そんなの違う、と言われるだろう。
実際、私も自分の考えが及ぶ顕在意識の範囲では違うと断言できるからだ。

ここで1つ、私は仮説を立てている。
顕在意識下の「死にたい」「生きたくない」と潜在意識下の「生きたい」の摩擦が、この焦燥感の正体なのではないか、と。

そして、潜在意識の「生きたい」が押しつぶされたとき、焦燥感は消えて、人は自ら命を絶つのだと考えている。

飛び降りや線路への立ち入り、首つりなど、ハッキリ言って正気の沙汰ではない。
いくら生きたくない私でも、それをする勇気は無い。
一瞬で死ねるかも知れないが、その一瞬の苦しみと痛みが怖くてたまらない。

自ら命を絶った人たちは、一体どれほどの苦しみを抱えてこの世を去ったのだろうか。
死ぬ瞬間に一瞬でも光は見えたのだろうか。
死ぬことそのものが光だったのだろうか。
苦しんで苦しんで、自ら命を絶つしか他に方法が無かった全ての人たちの魂が、現在安らぎに満ちていることを願わずにはいられない。


安楽死という大発明がこの世に存在するのに、それをさせてもらえないのはとても残酷な世界だ。


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