「ぎゅーして」が言えない
「ママ、ぎゅーして」
のひとことが言えなかった。
母は私のためにはぎゅーしてくれない。
ニヤニヤして、自分の満足のために手を広げる。
それをなんとなく見透かしていた私は、ぎゅーしてほしいと言えなかった。
「母は私のためには抱きしめてくれない。」
さみしい。さみしい。
でも、母は母なりに、私のことを精いっぱい愛してくれている。それはわかるから、感謝している。
「ぎゅーして」が言える人を探していた。
ようやく見つけたのが旦那だった。
私を抱きしめてくれる人。私がぎゅーしてと言える人。私のためだけにぎゅーしてくれる人。
旦那にも「抱きしめてほしい時ってある?」と聞いてみた。
「あんまりないかな。姉にたくさん抱きしめられた。」
よかった。たくさん抱きしめてもらったんだね。
お腹の赤ちゃんが産まれたら、たくさん抱きしめてあげたい。
私と同じさみしい想いをしてほしくない。私の満足のために抱きしめる。
でもきっと、私と同じように、子どもも察するだろう。
「母は自分のためには抱きしめてくれない。」
だから旦那にも、いっぱい子どもを抱きしめてあげるようにお願いしている。
子どもがさみしい想いをしなければ、それでいい。
「なんとなくさみしい」時、
どうしたら気持ちが紛れるか考えた。
「ぎゅーしてほしい」の一言が、
なぜこんなにつっかえるのか考えた。
2024.3.9
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