売りに出された元実家を取り戻そうとした話

引越しとはご縁がないと思っていた時、その瞬間が訪れた。

「来週には引っ越すから〜。引越し準備やってね。」
と母から告げられた時、私たち姉妹はあまりにも突然の事で言葉を失った。

え…引越し…?来週?
その時は高校を卒業し、来週から晴れて大学生という時だった。
母に嫌だ!と伝えるももう決まった事だからと、母は引越し準備を始める。
私たちも泣く泣く引越し準備を進めなければならなかった。

この話はもしかしたら前から水面下で進めていた話だったのかもしれない。私の両親は既に離婚をしていたが、住まいだけは離婚する前から住んでいたマンションだった。高校を卒業するまでは住まわせて、それ以降は別の所で暮らしてね…と父から言われたのかも…。

この真相については定かではないか、とにかく引越し準備を進めなければならなかった。
この家は私が3歳くらいから住んでいたから15年住んでいたことになる。そんな思い出の詰まった家には勿論思い出の品がたくさんあったが、母は無慈悲に物をどんどん捨てていく。なんとその中に私がずっと使っていたアップライトピアノもあり、「次の引越し先に持って行けないから」と処分されてしまった。今思えば一旦祖母の家に送るなどして預けてもらえれば良かったのに…と思うが後の祭りである。

私もどんどん物を処分する事になった。が、引越し作業は中々進まない。普段掃除しないと、ふと掃除した時に卒業アルバムを見てしまい作業が進まなくなるといった現象が多発した。

その中に私が中学2年生の頃に書いた手紙があった。その内容は私の隣の席の子がいつもうるさくて困っているという内容だった。なんでそんな内容を未来の私に託したのかと当時の私に言ってやりたいが、それくらいうるさかったんだなァと昔の私を労った。

さて、そんなこんなで引越し準備も着実に進み、次の引越し先を見ることになった。

不動産会社から鍵を受け取り、引越し先へ向かう。が、ここから私の気持ちがどんどん暗くなっていく。

引越し先は一応知っている駅ではあるが、当時主要都市(と自分で思っている)府中駅周辺に住んでいた私は、やはり他の駅に対して一種の優越感を持っていた。が、それがジワジワとズタズタにされていくのだ。

駅に到着した時、「え…なにこの駅…。」と当初の私は思った。そして駅に降りてから、どんどん進んでいく。そして段々歩いていくごとに「あ、ここだけには住みたくないな」エリアに突入した。

「ここじゃ嫌だここじゃ嫌だここじゃ嫌だ」とシンジくん風を出していくが、悪い予感は当たってしまうのである。まさに「ここじゃ嫌だ」の場所に到着した。

マンション住みに多少のステータスを感じていた私が、次は一気に団地(ここでは団地住みの人の気分を害してしまったら申し訳ない。当時の私はあまりにも環境が変わりすぎて受け入れられなかったのであるのでご了承いただきたい。)住まいとなってしまった。半ば諦めの気持ちが付いていたが、母がドアを開ける。部屋に入って、私は絶望した。母が「ほら、あんたたち1人ずつの部屋があるよ」と言ってくれたが、そんなことどうでもいいのである。高校を卒業して晴れて大学生!というウキウキの気分が一気にこれである。私は与えられた家具も何も置かれていない真っ新な「私の部屋」の床の上で声を殺してさめざめと泣いた。

結局ここから4年間はこの家に住むことになった。今となってはあの団地の思い出はいい思い出だし、その駅近くにあったコメダ珈琲店に人生初めて行って今では一番大好きなカフェになった。そんな思い出を作ってくれたのは、そのコメダで働いているお兄さんのおかげである。またこのお兄さんについて別に書いていきたい。

そして時が経ち社会人になって物件の契約更新時期のタイミングでもあったため、また引っ越すこととなった。前回のことがあったので、母が選ぶ物件に何も期待していなかったが、また府中駅に戻れるとのことであった。私たち姉妹は「そうは言っても…ねぇ?」と最後まで懐疑的であったが、母から「ここだよ」と言われた時は「ほ〜ん、頑張ったんだなァ」と思わざるを得ないくらい、一気に住まいが良くなった。

そしてまた時が経ち3年後…。私が不動産会社に勤めていることもあり、母が売り物件情報をメールで送ってくることが多かった。「将来は家を買って社労士の資格や税理士の資格を取って事務所を開きたい!」と意気込んでいる母は、そのために家を買いたいと思う気持ちが強くなっているのだろうか。私も精一杯協力してあげたいと思ったし、もしかしたら父から家を追い出された(仮定ではあるが)からこそ、父を見返して家を買ってやったというのを見せつけてやりたいと思っているのかもしれない。

そんなある日、突然母から一通のメールが届く。

「前住んでいたとこが売りに出てるから買おうかな」

私はこのメールが来た瞬間心の中で発狂した。あの家が!売りに出されている!?しかも神様の引き合わせか、私たちが当時住んでいた号室と同じ所=元実家だったのである。

これは全力で奪い返すしかない。妹も俄然やる気で不動産会社に内覧のアポイントを取ってくれた。母は一度言ったはいいが気分が盛り下がりやっぱやーめた!となることが多く、やっぱ私教育ローンとかたくさん残っているからやめよっとと言い出したが、母を説得するよりも断れない状況を作るため無理やりアポイントを取り見学日時を確定させ、とりあえず元実家を見学するだけでいいじゃん!と母を連れていくことに成功した。

当日は不動産会社の営業マン2名が来てくれた。1人は細身で20代くらいの男性、もう1人は新人の女性の方だった。

そして男性営業マンがマンションのエントランスを開いた。やっと、7年ぶりに扉を開いた瞬間だった。

最初は私たち家族がこの家に住んでいたことを知られないようにするため、「うわ〜エントランスがあるんですね〜」とか「エレベーター綺麗ですね〜」と“初めて来た風“を演技した。

そして、ついに自分たちが住んでいた所に到着した。
妹と「うちらが花びらの汁で汚した外壁めっちゃ綺麗になってんな」と小声で話してニヤニヤしていた。

元実家の鍵が開き、ついに7年ぶりの実家、お披露目である。

やばい、やばいぞ。
一気に記憶が蘇るとはこのことだろうか。
まずは廊下。濃い茶色で床には古傷がたくさん付いている。
そしてドアノブは当時のままの金色に黒みがかった、重厚感のあるものだった。

私たち家族は感動した。
と、同時に当時とは違う所もあった。

まず和室。
祖母の実家のような感じの和室の壁は黄緑色に張り替えられていて、障子も花柄模様のオシャンなやつだった。

そして部屋の雰囲気である。
金持ちが住んでいるんだろうな〜と思うくらいの、外国の置物やソファなどが部屋に溢れかえっている。

極め付けは私の元部屋である。日の光が当たらず暗い雰囲気かつスライムで汚れてダメになっていた絨毯はフローリングになっており、そこには「グランドピアノ」が置かれていた。
4,5畳の部屋にグランドピアノって入るの…?と思ったし、よくこの狭いドアから入れたなと感心した。

そんな感じで生活感溢れていた元実家は金持ちによって素敵な部屋に様変わりしていた。若干の寂しさは否めない。

そして営業マンの話が始まる。母も元実家に来てから乗り気になったようで営業マンの話を聞いていた。

不動産に勤めていると、最初の売り出し価格も売主側が希望する価格であり、こちらの交渉次第で値下げも可能であることを知っているため、そういった交渉は可能ですか?と聞いてみた。

それに対する営業マンの回答は、
この家に住んでいる人はセカンドハウスとして使っており、主に住んでいる家は別にあるとのことで、この値段で売れなければ売らないとの売主側の希望とのことだった。

それを聞いた私たちは、それくらい私たちと全然違う人が住んでいるんだなァと思ったが、その後営業マンから聞き捨てならない言葉を耳にする。

「売主様はこの家に7年住んでおり、思入れもあるようで」

私は振り返った。
妹の目つきも変わった。
こちらとて新築から15年住んでおり、新米の分際で何を言っているのかと憤りを覚えた。

ここでもう隠せないなと思った私たちは、ついに「実はこの家前に住んでいたんです…。」と打ち明けた。

営業マンはとても驚いていた。だがここからは後に引けない。今度は温情作戦で、私たちはこの家に戻りたいと思っており、何とか戻るために交渉してくれないかと訴えた。そしてその後住宅ローン審査の手続きを行なっていくが、借金を入力する欄で、母が100万円単位でいくつか入力をしていく。双子を私立に入れるには大変な労力がかかること、私たちが社会人になっても払い続けていることに感謝した。

住宅ローンが通るならまだしも、ここで問題が発生する。手付金問題だ。現金で100万円程を振り込まなければならず手持ち金がない母は、この時点で「それじゃ無理だね」と諦めを口にする。私はそんな母を尻目に元々この家に住んでいたし住宅ローンが通れば必ず住みますから、手付金をもう少し安くしてもらえませんかと訴えた。現在私も横浜のマンションに住んでいるが、そこで営業マンにお願いし手付金を100万円から50万円に減額してもらった過去がある。だから今回も交渉次第では減額できるのではないかと思っていた。

とりあえず一旦持ち帰りますねと伝えられ、住宅ローン審査も数日で終わりますから、ということで今回の内覧は終了した。

手付金や住宅ローン審査で借金の有無を入力する辺りから母はしきりに「それじゃ無理だよ」と口にし諦めており、私たち姉妹も元実家に戻りたいという気持ちは少しあったものの「久々に元実家に来られて思い出に浸れたし思い残すことはない」という気分になっていた。

数日後母から住宅ローン審査の結果が届き、審査は通らず「家のことだけどやっぱやめるね。」との連絡が来た。母は定年後は都民住宅に入れてもらうと言っているものの、また気分が変わり家が欲しくなった時は協力してあげようと強く思った。

ちなみに後日談であるが、府中市のハザードマップが送られてきて「元実家何かあったら浸水するわ」と連絡が来た。もう私たちに思い残すことは何もないだろう…。

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