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女の隠喩としての花;芸術と倫理の狭間で

【問題提起】  

 フェミニズムを語る時、とかく女性美を象徴する服飾を、男性の需要により造られたものとして、服飾における女性美=女性蔑視の表象とされる意見がしばしば見受けられる。これは美術作品にも近似のことが言えて、女性をモデルとし、とりわけ理想的身体なるヌードを描写した作品は、男性による女性蔑視に連なるものだとされる。

 その意見は、社会学の視点において、【征服者と誘惑者】の構造に由来しているものと筆者は考える。社会的弱者が生存するためには、美でもって誘惑し、媚態を生ずることで、征服者を魅惑して力関係を調整する。この媚態-コケットリともいうーが、社会的弱者の象徴であるがゆえに、女性美=女性蔑視の文脈上にあるもの、と解釈されがちである。ヌード史だけのことを言うならば、《アヴィニョンの娘たち》(パブロ・ピカソ,1907年)に代表される、三次元性を否定する荒々しいキュビズムで描かれた裸身の現れをもって、古代以来に理想的身体を形作ってきた西洋美術における人体表現は一つの終局を迎えており、《ミロのヴィーナス》(紀元前130年)から《トルコ風呂》(ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル,1862)まで約2000年ほどの間、女性の理想的身体は美術家たちの手により象られてきたことになる。名を遺した女流美術家は男性のそれに比して、歴史上に遺った数が少なく、男性の視点が優位だったとする立場の意見が主流であるのも、こうした歴史を根拠としているのだろう。

 だがしかし、媚態が権力を凌駕することは起こりえないと言い切れるだろうか?、と筆者は考えるのである。さらにまた、長らく媚態を背景とする表象であった女性美に連なる諸々は、それそのものが一つの毅然とした力になりうることはないのであろうか、との問題提起もしたくなるのである。


【チューリップを主とする理想美への陶酔、その狂乱】

 一国すべてを揺るがし、その経済を危うく破滅させるところまで追い詰めた花、チューリップ。単なる花が文化史に留まらず政治史の主役を担うという顛末は、1634年から37年にかけてのオランダが経験した「チューリップ狂時代」が最初で最後であるとされる。あらゆる社会階層の人々が熱に浮かされたように投機に走ったというこのエピソードはその事件の名称のみを唯一後世に遺している。

チューリップ狂時代(蘭: Tulpenmanie、 Tulpomanie、 Tulpenwoede、 Tulpengekte、 bollengekte。英: Tulip mania、Tulipomania、チューリップ・バブルとも)は、オランダ黄金時代のネーデルラント連邦共和国において、当時オスマン帝国から齎されたばかりであったチューリップ球根の価格が異常に高騰し、突然に下降した期間を指す。

 さて、絵画や植物画、文献、染織品などの美術作品から、チューリップが価値あるものとして人々に受容されてきた経過を辿ることとする。

 中世の織物の縁飾りには沢山の花をあしらうものだが、そこにチューリップの姿はないという。また近世初期に著された「本草書(ハーバル)」―当時の西欧で知られた植物すべてを、利用法も含めて網羅した文献―の類にも、その名は現れない。17世紀のオランダを軸に―やや勢いは劣るがフランス、イギリスでも―その陶酔に火が付いた「チューリップ狂時代」の激烈さからは、当時の西欧ではこの花が新奇なものであったこと、そしてその登場は唐突に訪れたことも、一因であったかもしれない。

  チューリップが初めてヨーロッパに伝播したのは、一般的には1554年であるとされる。それは、フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝)により、オーストリア・ハプスブルグ家から、オスマン帝国(トルコ)はイスタンブールのスレイマン大帝の宮廷に派遣された大使、オジェ・ギスラン・ド・ブスベックによるものだという。

 因みに、「チューリップ」という呼称は「ターバン」を意味するトルコ語が転訛したものだ。ここで特筆したいのは、チューリップが初めて公式に西欧へと渡ったのが、このような宮廷同士の交流によるものという事実、つまりチューリップは王侯に愛される花だったという事実であり、これが、瞬く間にチューリップが受容された一因と推測される。宮廷、王侯貴族間での流行は、洋の東西を問わず民間での人気に影響してきたことは、美術史の証明するところである。

 チューリップは、鮮烈な色味あふれる花弁を持ち、当時の西欧において知られたどんな花とも異なっていた。王侯の寵愛という比類なきステイタスの象徴としてチューリップが登場した時期は、オランダ黄金時代の幕開けと重なり、新たに独立を果たしたオランダが貿易によって富を拡張していた。オランダの首都アムステルダムの商人たちは、収益性の高いオランダ東インド会社の貿易の中心となっており、その貿易では1回の航海で400%の利益を上げることができた。

 チューリップ狂時代間に取引された最も高価なチューリップとして有名である「Semper Augustus(センペル・アウグストゥス 日本語訳:無窮の皇帝)」の、1637年の取引価格は1623年の取引価格の10倍に上昇していたという。

 結果として、チューリップは誰もが欲しがる贅沢品となり、品種が豊富になった。当時のチューリップは、幾つかのグループに分類される。赤、黄または白の単色チューリップはCouleren、多色チューリップはRosen(赤もしくは桃の地に白の縞模様)、Violetten(紫もしくはライラック地に白の縞模様)、または最も珍しいグループであるBizarden(Bizarresとも。赤、茶もしくは紫の地に黄もしくは白の縞模様)として各々知られる。

 その花弁の、複雑な線および焔のごとき形状の縞模様による多色の効果は、目を見張るべき鮮烈さであった。こうした効果を有し、多色のチューリップをより、オスマン帝国(トルコ)由来のエキゾチックな、異国情緒ある植物に見せるような品種の球根は殊更人気を博した。


【愛でられたのは奇形ゆえ】 

今日では、こうしたチューリップの変異種は、特有のモザイク病であり、1つの花弁の色を2つ以上に分裂(ブレイク、英:break)させてしまう「Tulip breaking virus(チューリップモザイクウイルス)」に感染したため生じるものであると知られる。まず王侯に愛されたのを契機に普及したチューリップは、品種増幅の結果、焔のような斑入りの妖艶な花弁を持ち、病んだ花、即ち花の奇形が、その奇特さ故に、人々の理性を狂わし、オランダ一国の狂乱の十字架に架けられ、祀り上げられていくのであった。

 栽培家らは、新品種に対し高貴な品種名を付けたという。初期のものはAdmirael(提督)という接頭語にしばしば栽培家の名前を組み合わせたものであった。例えば、そのように命名された約50品種の中で最高評価された品種は「Admirael van der Eijck(アドミラル・フォン・デル・アイク、日本語訳:フォン・デル・アイク提督)」である。また、Generael(司令官)も、約30品種に用いられた別の接頭語である。後期のものは、アレクサンドロス3世やスキピオ・アフリカヌスにあやかり、「提督の中の提督」「司令官の中の司令官」という形を取るような、より誇張された品種名がついた。しかし、品種名は場当たり的につけられており、さらに品質にも大きな開きがあった。これら当時の新品種のほとんどは現在では絶滅している。

 現在では絶滅していることの理由として考えられるのは、こうしたチューリップは球根で増やしていた為に、同品種の増殖に限界があるということである。親球根に付く、子球根からの栽培では、次第に球根が衰弱してきてしまう。薔薇、牡丹のように、個体の寿命が長く、かつ、木からクローンを作れる花とは事情が違うのである。さらに、不人気な品種は植え続けられないため、一代限りのチューリップも存在した。これが、新品種の命名が場当たり的であったことの理由と推測される。チューリップとはその場限りの花、永遠性は無い。

 人を惑わしその狂気で祀り上げられた焔の斑入りの花弁は、それ自身が脆弱に病んだ奇形であり、一過性のオランダの狂乱の中に身を埋めて絶えていくのである。嗚呼、何たる刹那的な破滅の美学、耽美哉。私という筆者自身がアイデンティティに日本を持っている為、比喩が東洋に飛躍して申し訳ないが、日本由来の哲学には、世阿弥が能の心得を著した『風姿花伝』が広く識られており、彼の云う、一時期だけ持て囃される状態を指す「時分の花」とは、このような状態をも包含する言葉であろうと思わずに居られない。また『閑吟集』には「一期は夢よ、ただ狂へ」とあり、チューリップが王侯に見初められてからモザイク病を病み、一時的な熱狂の中、花も国の経済も破滅に向かっていく様が二重写しになる。

【花;性の隠喩】

  かの、狂時代の間に取引された最高価格のチューリップとして有名な、絵画中に咲く品種「Semper Augustus(センペル・アウグストゥス 日本語訳:無窮の皇帝)」は、当時のオランダ人たちが、手の届かない高価なチューリップをしばしば画家に描かせて愉しんだことで美術品の中にその姿が遺るが、他のモザイク病のチューリップ同様、現物はもはや姿を消して久しい。この品種は白地に赤を散らした繊細な佇まいで、最も高騰した時の値は1万ギルター。当時のアムステルダムで、運河沿いに建つ最高級の邸宅が買えた額である。マイケル・ポーランは言う。


  いったいどうやって、植物の性の器官が、人間の価値観や地位や欲

  望に取り入るなどということが起こったのだろう。(p119,マイケル

  ・ポーラン『欲望の植物誌 人をあやつる4つの植物』,八坂書房,2012)


 彼によれば、自然の中にある花は意図を持ってデザインされておらず単なる生殖器官であるが、甘い蜜に左右対称の鮮やかな色どりの花弁という花ならではの健康が美として表象されるとき、その美は蜂などの虫を媒介した交合で報われるため、それを人間が自身の経験に結び付けて、花に意味を付与していく―まさしく隠喩ではないか―という。

  私たちは、(中略)こうした花の持つ意味を無節操にふくれあがら

  せ、本来は生殖器官にすぎないものを、自らの(あるいは他の人々

  の)経験を象徴するような比喩として捉えるようになった。その結

  果花たちは、逸脱の気配漂う、どこかいびつで不安定な美を表現す

  る方向へと進化していくよう、強いられることになったのだ――バ

  ラにおける「マダム・ハーディ」や、チューリップにおける「センペ

  ル・アウグストゥス」のように。(マイケル

  ・ポーラン『欲望の植物誌 人をあやつる4つの植物』,八坂書房,2012)

 こうして、生殖器官としては直喩である自然の花は、その表象された美により、性を隠喩する社交的態度ーコケットリーを持ち、その姿を変貌させていくのである。

 はじめに性の直喩としての、単なる生殖器官としての花があり、ややあって性の隠喩としてのコケットリを持つ、もう一つの花が生まれた。ここでのもう一つの花とは、その周辺で様々な文化事象が繰り広げられ、文化を生み育んできた花、一帝国の歴史にも匹敵する長い物語を持った花のことであり、またその形や色に香りそして遺伝子が、国立図書館の蔵書よろしく、時代ごとに変遷する人々の理想美や欲望を映す花のことである。植物にとって、人々の願望に合わせその姿を変えていくことは、夜の褥で奉仕することに似て、負担の大きい行為ではないだろうか。それゆえに、人々の願望を受け入れ、変貌を喜んで引き受けられるのは、ほんの一握りの植物に限られていく。

 西洋において薔薇はその代表例になるし、東洋では牡丹もそうで、また蘭、百合、勿論チューリップの名も外せない。いずれにせよ、こうしたごく少数の花々が、長らく「花の正典」とも呼ぶべき地位に君臨してきたのである。そうしたごく少数の花々は、流行という、時代毎の嗜好の変化に対応し、人々の寵愛による、揺るぎない絶対的地位を獲得するに至った。「花の正典」の中で薔薇を最も古株とすれば、チューリップは一番の新参者だということになる。

 それではしかし、こうした花々は一体どうして、性の直喩である自然の花は勿論のこと、性の隠喩としてのコケットリを持ちうる他の花々とは一線を画して、別格の寵愛を得る存在になったのであろうか。一要因として、その多様性が挙げられる。例えば、シェイクスピアの時代の撫子やカーネーション、ヴィクトリア時代のヒヤシンスは、当初装った風情が時代遅れになった後も、頑なにその姿を変容させはしなかった。その場合、一時の流行で人々に関心を寄せられることはあっても、すぐに放棄されてしまう。

 これと比較して、薔薇や蘭、チューリップは、時代の嗜好である理想美や政治情勢に合わせ自身の姿を変貌させるという驚異の芸当を、幾度となくやってのけてきた。こうした花々は、人々の持ちかける突飛な注文に喜んで奉仕してくれる。言うまでもなく、人の文化という、絶えず決め事が移ろう遊戯に、敢えて参加したがる態度の背景には、自らの繁殖地域の拡大を成功させたいという本能が潜在している。その成功により、薔薇やチューリップは、人々に関心を持たれる以前よりも遥かに多くの地域で、ずっと多く花を咲かせる。花にとっては、絶えず移ろう人々の嗜好や理想美に寄り添い、しなやかな女体か水飴の様にその姿を撓めていくその先に、世界中で繁茂できうる道が開けているのだ。それはそう、無論寵愛によって。

 

【結論    女性美の本質】

 チューリップは、自生の地で再評価されるまでに、他国での受容を必要としなかった。オジェ・ギスラン・ド・ブスベックが、その球根を西欧へ齎した頃、チューリップは既にオスマン帝国(トルコ)を始めとする中東においても多くの崇拝者を得ていて、その花姿は早くも、野生種のそれとは乖離していたという。現地でみられる野生のチューリップの典型種は、明色の短い可憐な花弁の6枚が、開き気味に咲き、しばしば花の底部分に、花の色と劇的な対比を為す、印象深い斑が入っていた。またオスマン帝国(トルコ)のチューリップは大抵赤で、白・黄は比較的珍しかったという。その国の人々は早い段階で、野生のチューリップはその花姿が変わりやすく、自由に雑種を作ることを知っていた。もっとも、オスマン帝国(トルコ)における交雑によって出来た種が花を咲かせて何いろかの花弁を付けるには、7年という歳月を要するのであるが。

 筆者が思うに、花とはしばしば、女の隠喩である。自然の一部でありながら、人の嗜好に寄り添うためにその姿を撓めていき、美でもって魅了し、終には一国の経済さえ狂わすのである。それは、女性美の本質というものでは無いだろうか。媚態に始まる美の変貌は、鑑賞者を魅了し、冷静な思考判断を奪っていくのである。自然から乖離した奇形ともいえる女性美は、美によって男性的なるものを凌辱するのである。

 例えば谷崎潤一郎は、女性美の暴走により男性を虐げるヒロイン像を、著作の中で繰り返し描いている。旧来の女性美は媚態に始まるものであり、それは自然から乖離した病的な奇形の側面を持つが、旧来の男性的な権力を、美によって狂わせる力を持つのである。

 花に表象される女性美は、男性的なる権力を蹂躙しうる。それは倫理に背いた摂理かもしれない。しかし、間違いなく芸術の一つの在り方であり、媚態を背景としない女性美の表現が表れるまでは、女性とは花のように文化史と政治史、芸術と倫理の狭間で、奇形の美を表しながら息をしてきたのである。 

 花の美は媚態に始まり、特殊な力を得て男性性の象徴である権力を狂わせ、あたかも単なる媚態が、一つの力であるかのように立ち現れるのである。

《参考文献》マイケル・ポーラン『欲望の植物誌 人をあやつる4つの植物』,八坂書房,2012)

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