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声のコントロールと意識のキャンバスの関係性について

(現段階ではまだ考察と仮説を立てたのみですが、たぶんこれは結構自分なりの正解なのではないかと思います。ややメモ書きに近い文章ですが公開。)

ラジオでしゃべったり、インターネットで配信したり、電話で誰かと話したり、歌をうたったり、私はいろんな場面で自分の声を使っています。
さらに、その中でもさらにいくつかのバリエーションの”声”が私の中にはあったりします。
実はこのバリエーションの極端な違いについて長いこと悩んでいました。


声のキャラクターが多すぎる問題

自分としては”声”のバリエーションは無意識に発生しており、あとで録音したものを再生する段階なってから、時と場合によってまるで全く異なる人物であるかのような声を発していることに気が付くことがほとんどです。

その変化の大きさに気づくたび「その時はこの意識で話していたからだな」というところまで自分で説明することは可能なのですが、いざ、また自分が何かを声で表現する(伝える)段階になると、その抑制やコントロールに意識が向かず、意図せず(言葉の選択ではなく)音声上キツい印象になるなどしているのを発見します。そして、その度に自己嫌悪に陥る、の繰り返しです。

極端に差があるとはいえ、怒鳴ったりするということはないのですが、話し声の芯の太さや速度、高低について全く無意識に、あたかも多重人格であるかのような変化が(自己評価で)表れており、聴いていて苦しくなることがあるくらいです。

当然ですが、歌の場合は声のトーンも含めて歌なので、歌については例外的にトーンが最も自分の支配下にきちんとある状態の音声表現になっています。
しかし、それ以外の「言語的交流のための声」についてはあくまで言葉の選択にばかり自分意識が向かっており、トーンはあくまで勝手についてきているだけの状態になっているわけです。

どうすれば歌うように話すことができるだろうかということを、悩むというと大げさですが、自分が抱えている課題としてずっと保持していました。


肉体からのアプローチではうまくいかない

自分でいうのもなんですが、好き嫌いはあるにせよ私の歌声は人に不快感を与えない声だと思っています。しかし、ではなぜ自分の話声はこんなにトゲトゲしているのだろうと、本気と書いてマジで考え、その度に、これはおそらく「ブレスや姿勢の問題=発生時の肉体のありよう」がなってないからだろうと考えていました。

つまり、会話の時も、もっと深く息を吸ってしっかり口を開けたり閉じたりして、発声時の”肉体のコントロール”をしっかりしなきゃ、と思っていたわけです。

だけどそうすると超スーパー怠け者の私は、常に歌ってるときの肉体の状態にしておくなんて面倒になり、会話の声はあきらめよう!という考えに毎度落ち着くのでした。そして、また録音を聴いては凹む、という何も改善しない負のループにいたわけです。

しかし、さっきあることに気付いてこれを乗り越えられそうな気がしています。そんなに大きなことではないのですけど。


自分の声に対して聴覚で直接アプローチする

気付いたことというのは、発声するときには、むしろ声のトーンの抑制にだけ気を配ってみてはどうかということです。つまり肉体の状態からではなく聴覚で感じた音声を直接支配下におく意識になってはどうかと。

言葉を使ってその時の考えを発するときには、まず一番に意識があって、言葉があって、最後に声のトーンがある状態になっている気がします。声のトーンの操縦自体が私から最も遠い位置にある。声そのものの要素の取り扱いへの意識が薄くなり、言ってしまえば声のトーンへの認識自体が雑になっているという感じ。

歌の場合は音程や声の質感に全力で意識を使っています。つまり言葉を発するときに置き換えると声のトーンだけを、耳と声だけで気にしている状態なのです。歌詞(会話で言えば話す内容)は覚えているし、そのタイミング(会話で言えばキャッチボールの速度)も音楽によって定義されているので、そういう意味でも内容より音そのものの取り扱いだけに意識が向いている。

歌によるインプロビゼーションや作曲をするときには、タイミングや内容の定義はされていないものの、その場でいちいち理論的に組み立てているというよりは、瞬間に合わせて経験や勘やノリからひねり出している。つまり”降ろして”いる状態に意識が向かいます。この時も、事実上、気にしているのは音の扱いだけです。

音楽で音の扱いにだけ集中できるのは、理論的な部分やパターンなどを反射で出せる(降ろせる)程度にまで落とし込めているからだと思います。これはしゃべりで言うところの日本語の文法や語彙の取り扱いの部分に当たるのだと思うのですが、私は国語に自信がないのでそこが関係してくると途端に声の取り扱いステータスがゼロになり言語の調整に全振りしてしまうのだということに気付きました。

では無意識に日本語を発したときの私の言語能力は、実際問題そんなに信頼できないものなのでしょうか…たぶん、そんなに信頼できないほどのものでもないと思います。

というわけで結論としては、喋る時に言葉に意識を全振りするのではなく音声に意識を多めに振って、且つ肉体を指標にするのではなくて耳で聞いた音声を指標にして喋れば肉体が今度は付随するようになり、音声の多重人格化が防げるのではないか!!!!という感じ。

あとはこれを実行に移してみるだけです。

あ、言い方を変えるとこれは”喋る時に理性を捨てよう!”って話ですね。


声のトーンのコントロールは、意識のキャンバスの縮尺コントロールになるのではないか説

冒頭の方で意識の状態はこうだから声がこうなっているという説明ができるという話を書きましたが、ということは、声のトーンをコントロールすれば意識のキャンバスの縮尺もコントロールできるのではないかという仮説が、ここまで書いて浮かんできました。

分かりやすく書くと、落ち着いた声のトーンを維持すれば「落ち着いた声のトーンの時の自分の脳内」が再現されるのではないかということ。(いや、むしろそうでなければ自分の中で辻褄が合わなくなってキツそうです。)

私は自分の意識のキャンバスの縮尺が結構変動しがちで、時と場合によってそれが大きく異なる(だから声のトーンも激しく異なる)のですが、もしかするとトーンを一定に保った場合意識の縮尺変動が少なくなる可能性があるんじゃないかなと思ったんです。

つまり声のトーンをコントロール下に置く時には、どんな意識で眼前の物事に対峙したいかをまず考えてみると、よりいろいろと円滑に自分の中が整うのではないか、なんてことを考えています。

とりあえずいろいろやってみよ~。

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