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食事と愛情の深い関係性について

先日インスタグラムで、アジア系コメディアンのリールを見た。中国人の両親を持ち、(おそらく)アメリカで育った彼が自分のアイデンティティのために経験したことについて漫談するスタイルのようで、彼のよく使う主語は”Asian parents”である。Asianなんていう大きな形容詞を使っていることに抵抗はあったものの、投稿の一つに考えさせられるコメントがついていたので、今回は、それについて書き留めておこうと思う。

A Love Language=…

その投稿は、そのコメディアンの友人が「あなたの両親が使う愛の言葉はなに?」と聞いてきたというところから始まる。友人は、「子どもを肯定すること」を愛の言葉だと表現したが、コメディアンはそれを退けて、「アジア人の親は子どものことは肯定しない、子どもを否定する(虐待する)言葉が彼らにとって愛の言葉だ」と主張して、オチをつけていた。
興味深かったのは、その投稿に寄せられた一つのコメントである。
「私のアジア系の両親は、食事で愛を示してくれる」
そのコメントに賛同する意見はとても多くて、私自身も、以前友人が同じようなことを言っていたのを思い出した。

=Food

その友人は、日本人の両親を持つものの、生まれ育ちはヨーロッパ。彼女は料理や食べ物について情熱を注いでいて、私との会話のメイントピックはもっぱら日本食についてである。自分の料理への情熱を説明するとき、彼女はこう言った。
「私の両親は私を抱きしめたり、直接的に愛情を示してくれることはなかったけれど、いつも料理を作ることで愛情を与えてくれた」
「手料理、食事=愛」という方程式は、私には当たり前すぎて、今まで考えも及ばなかったもので、軽い衝撃を受けたのをいまでも思い出す。
例のコメント欄にも、「テストでいい点を取ったら、好きなご飯を出してくれる」とか「どんなに叱ってもけなしても、その後にはご飯だよ、一緒に食べよう、といってくれる」とか、食事を通して示される愛情についてのエピソードが数多く寄せられていた。

愛の表現、コミュニケーション

一般的に愛の表現といえば、言葉を使ったものである。日本人は「愛している」なんてたいそうな言葉を使うこと自体は少ないけれど、子どもに対して、「大好きだよ」「よく頑張ったね」「偉いね」ということはあるし、ほめて伸ばすことが最近流行の育児論だと思う。
「母の手料理」なんていうものは、子どもたちが当たり前に享受すべきもので、それが愛の表現として、正しく言えば、親が自分に見せている愛情表現の一つとして受け入れられることは、きっとその子が大人になるまでないだろうし、それは「母たち」が意図していることでもないように思う。食事を当たり前のものとして常に与え続けること、その裏にある大きな愛情を、子どもはリアルタイムに受け取ることはできない。
かわりに、食事の場で、アジア人の多くは親子のコミュニケーションを図る。ともに食事をとること、子どもも無意識に受け取ることのできる愛情表現である。家族そろって食事をとる。何も話さなくても、お母さんばかりが喋っていても、おいしい温かいごはんをみんなで食べて、家族の絆を深める。

おひとりさま

日本で「おひとりさま」という言葉を聞くようになって久しいが、私自身もよくおひとりさまを満喫するタイプである。一人で映画に行き、カラオケに行き、コンサートに行き、美術館に行く。それでも、どうしても食事の場だけは、ひとりであることに寂しさを覚えることが多い。明確に、一人で、一人きりの場で食事をしたくない、と思う。だから常にユーチューブの動画を見ながらご飯を食べる。誰かと食事をして、おいしいねと言い合いたい。
その願いが、日本・アジアの文化に由来する独特なものなのではないか、そして、そのせいで、私は最近モヤついていたのではないか、ということに、上記の話題について検討していたときに気づいた。

日本人のあなたは、友人と会うとき、19時に待ち合わせ、といわれたらどういう場で会うことを想定しますか?
きっとほとんどの日本人が、「居酒屋にでも行くんじゃね?」と思うのでは?私の感覚もその通りで、13時とかの昼時に誘われても、いったん一緒にランチできるところ探すか~と、特に相手に確認も取らずに食べログを開く。
一方で、ここ、ドイツで19時に会いましょうとなったとき。私はもちろん相手に確認した。ごはんもう食べた?と。帰ってきた答えは、「これから食べるところだけど、なんで?」である。なんで? とは?
あ、そう、君は一人で食べるし、私も一人で食べるのか。19時に会うのに。その時覚えたモヤっと感の正体は、単純に、「私が、愛着を覚え始めている彼と一緒に食事をとりたかったから。」 一人で食事をとることをさみしく思ってはいても、だれかと食事をとること自体を自分がそこまで優先したがっていることに、今まで気づいていなかった。それは私の体に染みついている、意外にも大きい願望だったようだ。

食事に対する向き合い方の違い。あまり目視できることのない問題に切り込めたのではないだろうか。要再考。

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