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『zakuro,その断片 /ver 0.8.0』 (15)

 zakuro, その断片
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ぴえろ


 駅の改札を出て右に曲がるといつも通りクロチネさんが椅子に掛けていた。クロチネさんの前には白い布を掛けた長机があって、クロチネさんが描いた絵がばらばらと並べてある。タロットカードに似ている。そういう雰囲気の絵である。私はクロチネさんに会釈をした。
「似顔絵如何?」
 クロチネさんは微笑んで云う。そう、いつも云う。しょっちゅう通りがかる私がいちいち似顔絵を描いて貰うだろうとは思えないのだけれど、クロチネさんはそこのところをわかっていない。それで、いつも云われ、いつも私は曖昧に首を傾げて断るような仕草に見せかける。
「ううん、今日は、まあ」
 私は云った。
「見ていく?」
 クロチネさんは赤と黒を基調としたファッションで、自分の前にクロッキィ帖を置き、インキ浸け式のペンを気紛れに動かしている。
「あ、はい。見せて下さい」
 私も絵が好きなので、クロチネさんのクロッキィ帖を見るのは楽しい。黒インキの線は白い頁の上で、くっきりとしている。クロチネさんは、曖昧なぼかしや影を付けるのはまやかしだと思っているのだと思う。

「この男の子はね、似顔絵を描いたのよ。描いてってせがまれたの」
 クロチネさんが指差して云った。
「可愛い子ですね。隣の女の子は?」
「わたくしが付け足したのよ」
 もっともだ。隣の女の子の絵は、男の子の横顔と違って明らかにその辺りにいる子どもの絵には見えない。おでこにも目が描いてあって三ツ目だし、髪の毛は現実には物理的にあり得ないような跳ね方をしているし、服だって着ていない。クロチネさんはそんな風に、好きな風に現実を改造するすべを知っている。

 そこにコックが来た。
「本日のワインです」
 そう云って机にどばりと注ぐ。一気にひっくり返された白ワインが仰天しながら壜から飛び出して机の上に広がるので私はぎょっとし、クロチネさんも少しかおを顰めて、でもさらりと机の上にあった絵葉書やカードを救い上げる。そう、テーブルクロス抜きの逆ヴァージョンに見える。
「アィーダのものです。来歴四十二年」
 コックは机から簡単に白ワインを掬うようにして片手に持っていたグラスに注ぎ、机の上は綺麗に元通りになった。クロチネさんも元通りにさらりとすべてを元通りにして、ワイングラスを受け取った。
「酸味があるわね」
 ひとくち口に含んでクロチネさんが云う。
「トパァズ系の土地柄なので」
「そうね」
 クロチネさんは細く弓形に描いた眉をひゅうっと吊り上げて眼球をぐるりと回す。何を意味しているジェスチャなのかは私はわからない。
「あなたもお飲みになりませんか」
 コックが云う。
「いえ、私はこれから運転しなければならないので」
 私は手を楯のように構えて断った。まったく、どうして駅から出るだけでこんなに色々なものを断らなければならないのだ。コックは一杯目を飲み干したクロチネさんにお替わりを注いだ。今度は机にひっくり返す芸当抜きだったので私はそれを機に帰ろうと思った。
「では、さようなら」
 返事はない。

 階段を一段ぶん踏み出してから、ふと思い立ちクロチネさんの場所まで戻った。コックはもういなくて、クロチネさんはまた、
「似顔絵如何?」
 と云う。私は首を横に振ってから、思い出したことを慎重に云った。
「あのね、スケッチした男の子のほっぺたに星を描くのは止めた方がいいと思うの」
 私が云うとクロチネさんはクロッキィ帖をしげしげと見直した。
「そうかしら──」
「だってほら、曲芸師の真似をしているようだわ」
「──そうかも知れないわね……」
 クロチネさんは素直な感じの表情で云った。
「ぴえろさんになるわね」
「そう」
「この子はおおきくなったらぴえろさんになりたいのよ」
「──そう、じゃなくて……」
「そうね! ぴえろさんになりたかったのねえ」
 私は黙った。ふいに自信がなくなったのだ。
「そうだったの……」
「そうだったのよ!」
「そうだったの……」
「いいわねえ、子どもは。嬉しくなってしまうわね」
「そうですね……」

 私は何かを間違えたような心持ちで駅をあとにした。ボートの運転をしなければならない。それに、男の子の頬に描かれていたのは、星だと云ったけれどよく考えたら痣のようなものだった。クロチネさんがそれをクロッキィ帖に描き込んだ瞬間、似顔絵をせがんだ子どもの運命が変わっただろう。まったく、アィーダ産のワインを飲めばよかった。今日は飲酒運転で捕まらない気もするし。


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 もくじ


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