見出し画像

よかれ病って知ってますか?「あなたによかれと思って....」というアレです。

私が勝手に「よかれ病」と呼んでいるのですが、これに長い間苦しめられました。

「よかれ」と言いながら、「よくない」ことをしているのに本人は全く気づかず、当然ながら本人に罪の意識がない上、さらに被害者に感謝を要求するという甚だ迷惑で厄介な病気です。

これは恐ろしいことに伝染します。


この「よかれ病」の被害者と加害者について今回は書いてみようとおもいます。

私の母はとても元気いっぱい、こうあらねば、が非常に強い人です。我慢強く、気が利き、働き者で努力家、家族のことを1番良く考え、常に自分を後回し。

母は努力できる人で(努力できることは才能のひとつだと思う)その努力を必ず実らせてきました。

だから努力は必ず実ると信じていました。

そして、

自分の子ども(つまり私)を立派に育てようと、一生懸命子育てをしました。

教育ママでもありましたから、勉強はもちろんのこと、一緒に駆けっこしたり、ピアノを習わせたり、美術館にも連れて行き、教養や礼儀もきちんと躾けました。

もともと教職一家に生まれた母は教養や教育、礼儀にも厳しい家庭で育ち、本人もそうあらねばと努力し、大人になりました。

ですから、母としては当然出来ること、やるべきこと、そして得意なこと、を子どもの私にも嬉々として教えました。

小さな頃からそんな母の期待に応えて、母の言う通りに頑張りました。

でも出来て当たり前、出来て当然の事とされていたので褒められたと実感したことがありませんでした。

忘れているだけでちゃんと褒められていたのかもしれません。

でも出来たことを喜んでいる母より出来なかったことにため息をついた母の記憶の方が心に残っています。

反抗期も親に反抗したことはありません。

親に反抗するなんて考えもしなかったので、夕方のアニメを見たり隠れて漫画を読んだりするのが唯一の反抗だったのです。

ある日帰宅すると集めた大切な漫画本がありません。キョロキョロとあちらこちら部屋中を探しても見つからず、どうしたのかと母に聞いたところ

「あぁ、なんか漫画が押し入れにたくさんあったから、従兄弟に送ったわよ。あっても邪魔でしょ、従兄弟たちも欲しいと言ってたし良かれと思って。」

大ショックでした。コツコツとお小遣いを貯めて買い増やしてきた漫画本を本人に断りもなく勝手に部屋に入り勝手に処分し、本人は良いことをしたと思っているのです。

泣いて抗議したのですが、たかが漫画くらいなによ!と逆切れされて終わりました。

勉強だって運動だってピアノだって習字だって、母に褒められようと頑張ってるのに、なんで私の自由を認めてくれないんだ!と泣きました。

それが多分思春期最大の「よかれ病」被害でした。

その後も母の「よかれ病」は続きました。

結婚した後も「よかれと思って」とうちに訪ねてきては勝手に掃除し、冷蔵庫の中や食糧庫の中の食材を勝手に新しいものに入れ替え封の開いたものは断りなく持ち帰りました。

なので母が来た後は自分の家の台所なのに、何がどこにあるか、勝手に無くなっている調味料などのせいで料理に手間取ることも多々ありました。子どもたちの食べかけのおやつが勝手に捨てられていることもあり、後から食べようと取っておいたのにー!と泣き出すのをなだめたり、と余計な仕事が増えたものでした。

何度も「やらなくて良いから、せっかくうちに来たのだからのんびりお茶でも飲んでくれ、孫と遊んでくれ」と頼みましたが

「いいから、遠慮しないで。子供が3人もいるんだからお母さん、このくらい大したことない。娘の家は私の家でもあるんだから、掃除くらいなんてことない。良かれと思ってやってるんだから気にしなくて良いから」と取り合ってくれません。

嫌で嫌でたまらないからやめてくれ、とはなんだか可哀想で言えず、結局我慢していれば丸く収まるんだ、と自分に嘘をつき続けました。

母はいつまで経っても娘の世話は自分の務めであり、娘は思い通りにして良いもの、悪く言えば所有物扱いをしていることに気付いていません。

自分のやり方が1番と信じ、それとは違う娘のやり方を認めていないのです。だから矯正しようと奮闘し、それを正すと満足で満ち足りた気持ちになるわけです。

色々な人がいて色々な考えがあると理解し寛大な気持ちでいるつもりだろうけれど、実際には自分の尺度の中だけでしか良しと出来ないのです。

その枠から外れるとひどく憤慨し正そうとしました。

食材はいつも新しいものになり、整理もしたから見やすく、掃除したから気持ちよく、娘の仕事が楽になり、喜んでいるんだろうと大満足で感謝されこそすれ、まさか苦しめていたとは思いもよらなかったことでしょう。

母は努力家ですから自分のことより家族の幸せを1番に考えており、努力は必ず報われる、喜んでもらえるようにこんなに頑張っているんだから、その努力は必ずみんなを幸せにしている筈だと微塵も疑いが無いのです。

これが「よかれ病」の恐ろしいところです。

お分かりでしょう。

「よかれ病」のよかれは、実は「相手のために」よかれではなく、「自分が満足するため」のよかれなのです。

「よかれ病」には、こうされたら相手はどう思うだろうという配慮はありません。

物事を先回りして自分の考えだけで処理してしまおうとし、自分の考えの押し付けを正当化しているだけです。

当事者のやる気や考えたり工夫したりする機会を取り上げ、その世界に土足で踏み込み、成長やペースを妨げ、プライドを傷つけるということに気付いていないのです。

私は嫌だ嫌だと思いながらも、母の思いやりから出た行為に対してそんな感情を持つことにも罪悪感を持つようになりました。

私はなんで親不孝な娘だろう。心から喜べないなんて。

自己嫌悪も激しくなります。

でも、心の底では、何故私ばかりがこんなに我慢しなくてはならないんだと叫んでいたのです。

でもそこで異を唱えたところで母と揉めるのは避けられない。

母は確固たる理念に基づいての行為になんの疑問も失態も感じていないのですから、下手すると一方的に罵られ、縁を切られるかもしれないとさえ思い、言い出せないのです。

結局は、母がつい掃除をしたくなるような状態にしてある自分が悪いのだ、と結論付けました。

もっともっと家事をちゃんとして、母が来る前には部屋をピカピカにして「あら、今日はやることがないわ」となれば良いんだ、と思い、そういう状態に出来ない自分を責めました。

子どもの頃からずっと、母の「よかれ」に付き合い、愛情に応えなければと頑張り続けて、未だに合格点をもらえたことがない私は、大人になってもいつか母に認めてもらいたいと思い続けていたのでした。

「よかれ」は呪文のように長年に渡って私を苦しめました。

「よかれ」の呪縛からなかなか逃れられず、それが解放されたのは、心を血と血で洗うような、母との激しい闘いを経た後だったのです。

まだまだ続きますが今回はここまで。

お読みいただきありがとうございました。

画像1





よろしければサポートお願いします!書いていくモチベーションになります(*´꒳`*)50代の私がどこまで、どんなことが出来るのか日々模索と挑戦中。今までの人生での教訓や幸せへの法則などシェアすることで誰かの幸せにつながれば嬉しいです。