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わたしが知らない私:現実は他者のみぞ知る

将来を考えるとき、決まってこんな疑問が浮かんでくる。
「自分には何ができるんだろう」
「得意と言えるようなものがあるだろうか?」

ある・ないを考えることにはあまり意味がない。
セルフイメージを深堀りしても、やっぱり意味がない。
対外的な側面を磨いて、成功したいのだから。

答えは他者が知っている。



「今までどおり」を脱したいから

学生時代、講義中にこんなものを作成した。

 “ジョハリの窓とは?【わかりやすく解説】具体例、ワーク、4つの窓”
カオナビ https://www.kaonavi.jp/dictionary/johari/ (2024/6/17参照)

自分も他人も発見できていない自分=「未知の窓」以外を埋めた。
自分から見た自分と、他人から見た自分。これを図にすることで、自己理解が深まるというツールだ。
取り沙汰されたのは、右上「盲点の窓」。

これで何がわかるかというと、他人は知っているけど、自覚していない自分。
つまり、
「自分じゃわかんないけど、実際、人から見て自分はどんなやつなんだ?」
ということである。

左上「開放の窓」も人から見た自分を表す領域ではあるのだが、ここはセルフイメージと他者評価が一致している性格特性が入る。
自他ともに認める、というやつだ。

おもしろいのは、自分が気づいていない自分がそこに描かれるということ。
経験上、セルフイメージと他者からの認識がズレながらにして事がうまく運ぶことはなかった。
なので「他人からどう見えているのか」を知ることには常にアンテナを張っている。


「わたしの強みは?」
「得意なことは?」

こういったことを考えさせられる機会は、わりと頻繁に訪れる。

そんなの聞かれても困るよな、と自分で自分の肩を叩くのだが、
一生、「わかりません」で済ませられる問題でもない。

だから自分なりにいろいろ考えてはみるものの、新鮮味のない結果に終わること多数。
そうしたときはたいてい、「自覚している自分」で勝負している。

他人がそれを知っているにしろ知らないにしろ、今まで通りのやり方をなぞるだけになるわけだから、当然今まで通りの結果しか出ない。

ちょっと新しい趣向を試してみたいよな、と思い立った。
必要なのは、納得できなくても受け入れる、ということだった。


他者は伝えてくれている

自分では全くそうは思わないけれど、他人からよく言われることってないだろうか?

たとえば字が上手い、とか。
説明がわかりやすい、だとか。
きれいな顔だね、なんてのもあるかもしれない。
(言われてみたい)

これまでの人生を振り返ってみて、1人でなく複数人から投げかけられた言葉があるならそれが、
他者は知っているが、自分が気づいていない自分だ。

こういうのはいつも、納得いかない。
いやいやそんなことないだろ、と否定したくなる。
けれどそれが現実だ。

現実は自分の目には見えていない。
体感として降り掛かってくるだけで、私をいつも混乱させる。
現実とは他者がつくるものなのだと思う。

一見ポジティブな評価がなぜ受け入れ難いかって、それは好きだからこそである。
褒め言葉をきちんと受け取っているか?

明確な根拠はないけれど、他人から褒められるような特技のこととなると、人は謙虚になる。
そういう場面を何度も見てきた。

こちらの動画で、私のふわっとした理解が言語化されている…!と腹落ちしたので載せておきたい。

私の体験でいうと、服装をはじめとして「身につけるモノ」をお褒めにあずかることが多かった。
感情が薄れて、あんまり覚えていないくらいには。


得意を磨いてみた

先日、再びお褒めの言葉をいただいたことがきっかけで、そういえばあの時も…あの時も…と芋づる式に記憶を発掘した。
でもなあ、言うほどじゃなくない?という心の声は抑えておいて、逆に全力で取り組んでみることに決めた。

やってみてわかったが、褒められるのは、
普段何気なく、それこそ息をするようにやっていることの成果だった。

「いつものこと」に広がりを持たせて、プロの力を借りたり、お金をかけたり、細部にこだわったり。

取り組みがプラスに働いたことは、わりとすぐにわかった。
いつも会う友人、久々に会う知人。
今までにないくらいの頻度で褒めてくれるのだ、しかも具体的に。
「この味噌汁美味しいね」じゃなくて、「この味噌汁、お揚げの旨味がすごいね」といった感じだ。
何を良いと思ったのか具体的に教えてもらえると、お世辞ではない気がして自信になる。

体型が変わったとか、新しい髪型が似合っているとか、服がイメージに合っているとか。

ある程度自覚的な努力を伴ってはじめて、素直に嬉しい、褒めてくれてありがとうと思えた。
難儀なものだ。

言われてみれば、せっせと努力はしてた

今回のことは、他者が知っている自分を活かそうとするとどうなるのかを小さく実験しただけに過ぎない。
それでも大きな収穫があったと思った。
巷でよく聞く、「努力を努力と思わない」を体感的に理解できたのだ。

服装に関していえば、私がいつもやっていることは、こんな感じ。

  • TVや広告媒体、SNS等で好きなビジュアルをチェック

  • 服飾店に赴き、トレンドを把握→目ぼしいものは試着する

  • ついでに街行く人の服装で人気のほどもチェック

  • ネットやYoutubeで着こなしのコツを勉強

  • たまに海外の情報もチェック

  • 買う気はないがネットショップで欲しい服をピックアップ。希望の型が見つかるまで似たような品を漁る。そのうち画像検索に憤る。

  • 自身の体型や顔立ちから、似合うものを研究

これらすべて、「特に意味はない」のだ。
外出の予定がないのに、窓の外を見て天気をチェックするようなもの。
自発的に動いている自覚すらなかった。
自分が天気を見ようとしたのではなく、視界に窓が入ったから空模様も何となくわかったのだと思っていたから。

ほんの幼い頃からの習慣、性癖というのは、自覚するのがなかなか難しい。

+αでいろいろやってみたわけだが、特に大変なことや面倒なこと、疲れすらなかった。
むしろ、こんなことずっとやってて大丈夫か?夜通し漫画を読みふけって、夕方に目を覚ましたような罪悪感だ…と頭に浮かぶくらいには楽しんだ。

探さなくていい。もうやってるから

自覚するだけでよかったのだ。
セルフイメージと他者の認識は、往々にして乖離するもの。

「自分的スタンダードな習慣」を一段階引き上げてみれば、きっと苦もなく得意なことが見つかる。
何をもって得意たり得ているのかを分析すれば、強みがわかる。
おそらく自分はこれが好きなのだと、認められる。
応用だって効くだろう。

他者から見れば努力以外の何物でもなくても、自分が努力と気づいていないなら、幸せなことだ。

もちろん、さらに高いレベルを求めるなら、いつかは労を労と思う時が来るのだろう。
それでも、イチから能力を開拓するよりはずっと楽だろうし、他者からの評価も得やすいはずだ。
きっと自覚的には少ない労力で、乗り越えていける。

何気ない他者のひと言が、金言になるはず。

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