見出し画像

私が手放したもの

さてさて、明日は帰省終了。
だらだらと楽しみながらも生産性のない時間を過ごしてしまったが、またこの生活も終わる。
こんな時間になってしまったので、今日も箇条書きでいこうかと思ったのだが、今日は書きたいことがあった。

手放したもの。

わたしは物を捨てられない人間である。探せばどこかに小学校時代のもの、中学校時代のもの、高校時代のもの、と全てではないが何かしら残っている。

本当は手放したいものばかりだ。何故こんなにももので溢れてしまうのか、と自分でも疑問に思う。

そして、これは実際の"もの"に留まらず、私の心の中にも当てはまる。

様々な負の感情。
あの時こうしていれば。
すでに決めたはずのことに対しても、やっぱりこっちのほうがいいんじゃないか。

"これからの私"を形成する上で必要でないもの全てを手放してしまいたい。

現実の"もの"に対しては、先日、手放す機会があった。引っ越しである。
新しいおうちに持っていくものは最小限にしたい、と無謀にもミニマリストを目指したが、数時間で挫折した。
私はものに固執しすぎるようだ。

そういえば、もう絶対に使わないであろう大学のテキストや高校時代の数学のノート(図形を描くのがすごく上手くいった自分の中での最高傑作)。
大学生の頃、同じ授業を履修していた人は試験が終わった瞬間に、扉のところに臨時で設置されていたゴミ袋にほかの人のノートのコピーをその場で捨てていたっけ。

私は残すならきちんと形にして残せばいいのに、ぐちゃぐちゃの状態で、といっても私にとってはある程度分類された形で残してある。

よく、○○○(期間)使わないものは、もうこの先必要のないものだから捨てましょう、というが確かにそうかもしれない。しかし、同時にそれに付随する記憶まで捨ててしまいそうに思われる。

別に全てのものに対して一定のボーダーラインを設けて判断を下す必要はないのではないだろうか。
まぁ、こんなことばかり考えているから私の判断基準はブレブレになってしまっているのだけれど。

みんな違ってみんないい、ではないけれど、価値の判断基準なんてものは統一することなんてできないと思う。

また、物理的なものを手放すことでさえなかなかなのに、こと、心の中のものは非常に難しい。現実のものと違って心の中のものは、どれだけぐしゃぐしゃに丸めてゴミ袋に詰めて、知らぬ間に燃やしてしまおうが、その立ち上る煙を見た瞬間に、掌の中に同じだけれど違うものが舞い戻ってきてしまう。

こんな考えばかりで、言い訳のようでもあるし己に対して甘々すぎるようにも感じるが、これが私のアイデンティティであるとも言える。

最近の本屋さんにはhow-to本のような、こうしたいならこうしなさい、といった本がたくさんあるが自分に甘々な私は、自分の価値基準で一度考え直すことが必要だと考える。バックグラウンドも能力も現在の環境も違うのに、同じことをしたとて同じ結果が得られるとは限らない。

重要なのは、手放すことではなく、拘泥しないことだ。そして、不要なものから順に手放していけばいい。手放すことで解放されようとしているにもかかわらず、手放すことがストレスになってしまっては本末転倒である。

まあ、ここに書いたことは全て私の価値基準に基づいているので、読む人によって同意もあれば、反対もあるだろう。そこは自身の価値基準で捉え直してもらえればなあ、と思う。

最後に、私が最近手放したものは、心の中の大き目の水溜りだと思う。その水溜りは完全になくなったわけではないと思うが、それをちょっと頑張って飛び越えたことで新しい世界に飛び込めたと感じている。

かなりカッコつけた表現だな。。
あと、実際に書いた文章より事前に頭の中で組み立てていた文章のほうがいつもいい感じな気がするが、それをそのまま文章化できなくてもどかしい。

それでは。
Have a nice day.

.colonyまいにち日記部、3月のテーマ「私が手放したもの」

#毎日note #まいにち日記部 #日記 #エッセイ #コラム #日記 #ひとりごと #3月 #アイデンティティ #まいにち日記部3月共通テーマ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?