【小説】傘と共に去りぬ 第11話 赤信号の次【毎月20日更新!】
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「いい加減に前髪だけでも切ったら」と、母が何度目かの忠告を床に転がした。廊下の先に消えて狭くてそれを見送って、「いってきます」と反対方向へ足を踏み出す。見上げた先の空は晴れていて、なあんだ、と思う。今日もきっと、つまらない日になるだろう。
12月/朝木 誠
定期券で行ける範囲が、俺の住んでいる世界だ。それ以上でも以下でもない。狭くて息苦しくて、いっそ笑えるくらいにつまらない世界。
ちょうど停まったバスに乗り込んで定期券を機械にかざすと、ピッ、という間抜けな音が鳴る。いつもと同じだ。運転しているおじさんも、俺の直後に乗ってくる頭がピンクの女性も、発車ギリギリに駆け込んでくる細身の青年も、いつもと変わらない。まあ、運転手は入れ替わったりするし、天気や曜日によって乗車客の顔ぶれは変わるが、四捨五入すればほぼ同じだ。
俺がときどき、高校の最寄りにあるバス停をわざと乗り過ごしていることを、きっと彼らも気づいているだろう。終点までぼうっと外を眺めて、乗る客降りる客を数えるでもなく眺めて。そういう旅をはじめたことを、きっと。少なくとも、おや、という顔で俺の姿を見たことがある人は。
今日も「終点です。お忘れ物のないように」という声に引っ張られて顔を上げる。乗客は俺一人だけだ。「ありがとうございました」と置き土産のようにぼそぼそ言い残して、ステップを降りる。
近くのショッピングモールに入り、並んだ店の商品を見ながらゆっくりと歩く。
「メリークリスマス!」
「クリスマスは、おうちでチキンでしょ!」
「大切な人と、心穏やかなクリスマスを」
周囲が冬の色を帯びていくことには、とっくの昔に気づいていた。
不快ではないが、焦りはある。「大切な人」と聞いて、家族や友人の顔が浮かんだことに安堵した。でも、それだけだ。
いつもだったら、意味もなくモール内を回っているうちに外が暗くなってきて、そこでようやくそばにある本屋へと向かうのだ。それなのに今日は、まだ空がほんのり明るいうちから、逃げるように冷気の中へと飛び込んだ。
あの本屋に行くのは久しぶりだった。
最後に足を運んだのはいつだろう。記憶にあるのは、妙な暑さが残るアスファルトと、それを癒す店内の風だったように思う。
「いらっしゃいませ」
本屋の中に入ると、すれ違った店員が囁くように定型文を唱えた。なんとなく会釈して通り過ぎる。
雑誌のコーナーを眺めて、マンガの新刊をチェックする。無料アプリで途中まで読んだ作品の最新刊がいくつか出ているようだったが、いったいどこまで読んだのだったか。話の内容が思い出せず、手に取るのはやめた。
あとはどのコーナーを見ようか、と振り返ったところで、ぐらりと視界が歪んだ。
――俺、いったい何をやっているんだろう。
つまらない毎日。何の変化もない毎日。
バスの終点までが精一杯な旅しかできない、小さな、取るに足らない生き物だ。ポエマーみたいで恥ずかしかったけれど、なぜだかときどき、こうして不安な気持ちになることがある。親にも友達にも言えない、寂しがりの子供みたいな焦燥感。
店内の照明がぐるぐる回っているような気がして、思わずしゃがみこんだ。
気分が悪いことは事実だったのに、それを知られるのが恥ずかしくて、平積みされた本を伺い見ているふうを装う。
「……だっ、大丈夫ですか?」
背後から、女性の声がした。
ああもうなんだ、放っておいてくれ。そう思うのと同時に、彼女の語尾が震えていることに気づいて。投げやりな思考を抱いた自分にうんざりする。
視界の端に、ビニール傘の先端がうつった。
今日は晴れているのにな、と思いながら、振り返って顔を上げる。
(つづく)
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