小人とやさしい人たちの家
前日の夜に思い立って、電車を乗り継いで妹に会いに行った。
隣の街にランチに行くみたいに待ち合わせしたけど、その距離210キロ、3時間半。
ちょっと散歩に行く感覚で行くなーって自分でもびっくりしたけど、行くのだった。
カニクリームコロッケとエビフライと味噌カツを食べて、散歩して、お茶して、私はなんではるばる来ちゃったのかを話した。
「そりゃ来るわ!」って、私よりもずっと常識人の妹に言ってもらってホッとした。
来てよかったなーって、会った時からもう思っていたけど、その後も何回も思った。
好きな人のそばに居ることとか、場所を一旦離れることとか、ただおいしいものを一緒に食べることとかで何とかなることがある。
夜は、家に泊めてもらうことにしたけど、予定があってみんな出掛けて行ったから、お酒とお寿司を買って、一人で録画されていた大河ドラマをみた。
今までの7話分。草彅君がでていると聞いて、ずっと見たかったの。彼が出てくるところだけ、飛ばして見た。かっこよかった。
人の家で自分の家みたいにくつろいだ。
私は人の家で自分の家みたいにくつろげるんだな~と思った。
帰ってくる人がいることや、自分ではない人たちの生活の跡とかが雑多に漂う空間は、一人という気が全然しなかった。
そういうことが今必要だったんだなーと思ったら、自分でもわからないままに飛び出してきてヨカッタナーと思った。
必要なものの内訳……
・210キロの距離!
・人の気配
・存在の確認
・おいしいもの
・夜に帰ってくる人
妹が、家を、限られたスペースを工夫して機能的にしているのが立派で、私は、真面目な小人の家に来た気がした。
空間の広さにまかせて奔放にしている自分の暮らしぶりと比べたら、私はただのわがままな巨人だなーとわかった。これはべつに反省ではないんだけど。
帰りは、さらに家を通り越して海の街に行ったから、まるでゆかりの街々を通り過ぎるツアーで、走馬灯的だった。
暮らしたことのある街々には、いい思い出だけじゃなく、怒りや悲しみもあったはずなのに、そういうものは不思議と思い出さなかった。
懐かしさというのとも違っていて、だってそれは「今」でもあったから、ただ知っている街というだけだった。
電車が猛スピードすぎて、感傷に浸るのをゆるさなかったのかもしれない。
私は、ひとつも見逃すまいと子どもみたいに熱心に窓の外を見た。
もう知っている街ばかりだということが、ただうれしかった。
夜にたどり着いた初めての街には、雨が降っていて、懐かしい曲の流れる商店街があった。
友達が美しい歌を歌った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?