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「平成の努力」と「令和の努力」_がむしゃらに生きてきた私たちは、後半生をどう生きるか。

「手を抜く」と「肩の力を抜く」の違いがわからない
「努力しない」と「エフォートレス」の違いがわからない

この言葉は、敬愛する同年代の女友達と久々に会って会話していたとき、彼女から出てきたもの。新卒で会社員となり、仕事に没頭し、気づけば中年と呼ばれる歳になった私に、この言葉は分かりみが過ぎました。努力を重ね、がむしゃらに生きてきた私たちは、後半生をどう生きればいいのか。令和の時代の努力って何だろう。そんな中年のもやもやを綴ってみたいと思います。

努力とは同質化(平成初期)

学部新卒で某小売企業に就職した私は、「支店史上初の女性社員」として、北関東の某支店に着任しました。コンプライアンスや「#me too」という言葉が存在しなかった平成初期、会社は今よりもずっと家父長制で、男性中心で、まだまだ女性正社員は珍しい存在でした。着任して1ヶ月ほど経った歓迎会の席で、男性の先輩から「女が着任すると聞いた時はどうしようかと思ったけど、思ったより性格が男だったから安心した。だからお前の事は男として扱う」と言われました。その後、男だからOKという事でなぜか胸を揉まれました。令和の時代に文字起こしすると完全にアウトですね。今思い返すと完全アウトなことを沢山されたし、生き残っていくために平気なふりをしたり、面白がったふりをしていました。そうやって自分の感覚や違和感を麻痺させて、段々と男性中心社会に同質化していきました。同質化することが、会社を、社会を、生き抜くための努力なんだと思っていました。

努力とは仕事量(平成中期)

仕事に慣れると、徐々に任される仕事の量が増えてきました。(少なくとも私の周りには)ワークライフバランスという言葉が存在しなかった平成中期、努力とは誰よりも仕事量をこなすことでした。仕事量=上司の信頼だと思い、信頼に応えるためにさらに多くの仕事をこなしていく。この頃は、成果を挙げることが、自分の存在意義であると思っていました。サービス残業は当たり前、会社が残業を抑止するために20時消灯を制度化した際には、電気のつく会議室に隠れて残業をしていました。今考えると、会社に隠れて残業するのが意味不明ですが、そんな「夢中になって仕事を頑張っている」自分が好きでもありました。当時の私にとっては、努力する事は仕事量であり、成果を出して上司に褒められることが、生きている意義だったのです。一方でこの頃の私はプライベートという概念が希薄で、自分の食事や運動、友人と過ごす時間を随分と蔑ろにしていました。なぜか家で虫が飛んでいるなと思ったら、数ヶ月前に購入したじゃがいもの化石が発掘されたり、これに懲りて食材は全く買わなずに冷蔵庫は空っぽだったり。友人と旅行中も常に仕事用携帯電話を握りしめていたり、友人の結婚式会場ですら取引先に電話したり。仕事に集中するあまり、それ以外の事を完全に疎かにしていました。

努力とは役割を演じること(平成後期)

そうしてがむしゃらに成果を上げていると、やがて役職なるものがついてくるようになりました。その会社は、私が就職した平成初期になって初めて、総合職として男女半数ずつ採用を始めました。よって、私より年上の女性社員は母数として少ない上に、当時は結婚や出産で一般職に転向するか、退職するのが一般的でした。「女性管理職比率」や「女性活躍推進」という言葉が登場し始めた平成後期、私は突如として役職がつき、部下がつき、チームを率いるようになりました。つい昨日までただただがむしゃらに働く一兵卒だったのに、いきなり部下を指導し、チームを率いることができるようになるわけもなく。参考にしたくても、女性管理職は殆どおらずロールモデルも存在しない。必然的に男性上司のマネジメントを真似るようになりました。そして、管理職になった私の努力とは、弱い自分を隠し、役割を担い、役職を演じることになりました。管理職になり給料は上がりましたが、中間管理職として上司と部下の間に挟まれることも増え、給与の上がり幅よりもストレスの上がり幅の方が俄然大きくなりました。役職に見合った見栄えになるように、弱い自分を隠すように、ボーナス全部を叩いてブランドスーツと靴を購入したり。この頃の私は、自分を隠し、自分ではない役割を演じることが努力だと思っていたのでした。

令和の時代の努力とは?

その後、私のnoteでも書いているように、新卒から13年間勤めた会社を離れ、結婚し、パリに住み、フリーランスになり、博士課程に通い、子ども2人に恵まれ、慌ただしい日々を過ごしています。そして、私が平成という時代のほぼ全てかけて、努力を捧げ、勤め上げた会社も、つい先日、大きな変化を迎えました。

時代も、会社も、人生も、変わっていくのだから、きっと努力の形も変わっていくはずです。令和の時代の努力とはどういう事なのか。まだ上手い答えは見つからないけれど、一言で表すなら

自分らしさを問い続け、自分らしく在り続けること

なのではないかなと、最近考えるようになりました。過去の私にとって、努力は、自分の感覚を鈍らせて誰かに同質化したり、自分を疎かにして一点集中したり、自分を隠して役割を演じることでした。
しかし、(良くも悪くも)個人が情報を配信できるようになり、「ここだけの話」が通用しなくなり、裏も表もなくなった令和のいま。自分を誤魔化し、隠し、取り繕って、表面だけを綺麗に見せたりする事は逆に簡単で、逆に努力しているとは言えないのではないでしょうか。
うまくできない部分も含めて自分の全てを自分だと認めること。他人の真似をしたり、演じたりするのではなく、自分らしさを問い続け、自分らしく在り続けること。浮ついたり綺麗に取り繕ったりせずに、地面に足をつけ続けること。これが令和の時代の、新しい努力の形なのではないかと思います。過去の努力とは全然違うので、私にとって、(そしてもしかしたら、がむしゃらに生きてきた私たちにとって)、自分らしくあることはとても難しい事です。でも、後半生は、こんな新しい努力をしてみたいと思うし、するに値する努力だと思います。そしていつか、努力し、頑張らなくても、自分の全てを認めて、自分らしく在り続けられるような自分に。肩の力が抜けたエフォートレスな自分に、なれるといいなと思います。

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