カヨの話③:はまりこんだモラハラの沼
オークランドに戻ったカヨには恋人ができた。同じレストランで働くニュージーランド人だ。付き合って間もないタイミングでカヨのビザが切れたため、ふたりはすぐに遠距離恋愛に突入した。
ハネムーンフェーズで離れ離れになったふたりの気持ちは燃えていた。カヨはニュージーランドに戻るために池袋のビジネスホテルでのバイトに励み、彼との関係も順調に育んだ。そんな付き合いのなかでふたりが将来を具体的に描き始めたのは自然な流れだった。共同名義の銀行口座を開設し、カヨは長期的なパートナーシップを築くことを前提にパートナービザを取った。
そうしてオークランドに戻ったカヨは彼と暮らし始めた。しかし彼との関係に不安を感じ始めるまでに時間はかからなかった。彼は支配欲が強く、気に食わないことに対して怒りを抑えられない。カヨが男性に道を尋ねるだけで激怒する有様だ。それはもはや言葉による虐待と言っていいレベルだった。何度か別れようとしたが、そのたびに俺にはカヨが必要だ、もう1度チャンスが欲しい、俺は変わるからと懇願される。そんな姿にほだされて、カヨは何度もチャンスをあげた。けれど彼が変わることはなかった。
生活に余裕はなく身体は痩せ細り、ストレスで皮膚炎も発症した。当然ながら友人にも心配されたし、一時帰国した際はあまりのやつれっぷりに母親を驚かせてしまった。けれど、自分の選択が間違っていることを認めたくなくて、いつも「大丈夫」と言っていた。今考えると、カヨ自身が大丈夫だと信じたかっただけだ。
そんな日々が3年続き、カヨはようやくその生活を終える決心を固めた。ニュージーランドで彼と一緒に生きていくつもりで日本を出てきたのに、待っていたのは怒りをコントロールできない男がいつ爆発するかと怯える日々。未来などないどころか、そのうち身体的な危害を加えられるかもしれない。身の危険を感じたカヨは彼を刺激しないよう、日本に一時帰国すると言ってニュージーランドを出た。そしてもう戻らなかった。
ちゃんと別れたのはしばらく経ってからだ。カヨ自身も彼への情があったし、楽しかった記憶もある。だからこそ変わってくれるかもという期待も捨てきれず、ずるずると決断を先延ばしにして連絡を取り合ってしまった。しかし何よりもカヨを苦しめたのは、自分で自分を守ってやれなかったことだ。自分を傷つける人間を毅然とした態度で拒絶できなかったことは、長らくカヨのしこりとなった。
カヨは小さい頃から八方美人だった。誰からも嫌われたくなかったから、色んなグループの友達と仲良くした。相手の期待を汲み、それに応えることも得意だった。だからたとえ相手の要求が度を過ぎたものであっても、毅然とNOと言うことができず、なんとか自分の力で相手を変えてあげたいとすら思ってしまったのである。アラスカ時代も、ワーホリ時代も、自分は悪くないのにもかかわらず状況を変える努力をしてしまった理由もそれだ。そうした気質はモラハラ沼ととても相性がいい。そして気が付けばカヨはその沼にどっぷりとはまっていた。
この気質は帰国後に勤めた会社でも自分を苦しめた。その会社では、カヨにだけ当たりが異常にきついと感じることが多かった。理不尽とも思える叱責は日常茶飯事で、褒められることはほとんどない。できないことばかり意識させられる日々だった。お人好しなカヨは完全に舐められていたと思う。けれど、期待される成果を出せない自分が悪いのだと思い込み、自分には価値がないとすら思っていた。ようやくその沼を抜け出そうと退職の意思を伝えたとき、会社からは君が必要なんだ、変わるから残ってくれと長時間にわたって説得された。それはカヨにとって既視感満載のシーンであった。
仕事以外でも舐められた。たとえばごみ捨てである。オフィスではごみ捨てや掃除などは「気付いた人がやる」ということになっていたが、カヨ以外の男性メンバーはほぼ気付かないふりをする。溢れそうになっているごみ箱の中身を上からぎゅうぎゅう押して、新たなごみを無理やり詰め込もうとするのだ。仕方なく毎回カヨがごみ出しを行った。おそらく皆心のどこかで「カヨがやってくれる」と期待していたんだろう。たまたま毎回「気付かなかった」ということにして。
カヨにとっては、初めて入ったビジネスの世界だった。英語は話せるけれど、その他はゼロスタートだ。自分は誰よりも遅れていると思ったし、劣等感があった。だから人より頑張らなければと自分を追い込んだ。スタートアップ事情を学び、自社ブログに記事を書き、まったく縁のなかったマーケティングについても一から学んだ。デザイナーやエンジニアなどさまざまな職種の人とうまく協業することも覚えた。そういう意味では、ビジネスパーソンとしてのカヨの基盤を作った場所だと言える。
けれど、カヨの自己肯定感はすでに落ちるところまで落ちていた。そうして限界を感じていたカヨのLinkedIn(ビジネス用SNS)に、ある日ダイレクトメッセージが届いた。それはWeWorkの採用担当者からだった。
Photo by Asaf R on Unsplash
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