見出し画像

目的フォーカスを忘れた思考停止の蔓延

先日、友人であるBさんが「仕事内容に関して異議を唱えたら、その仕事をやりたくないと解釈された」と憤っていた。彼女はアサインされた仕事の内容に納得ができず、そもそもの内容自体を見直すべきなのではないかと上長に対して異議を唱えていたという。そうするとある日上長から、「Bさんの仕事はこれだけに減ったよ、よかったね!」と言われたというのだ。彼女は唖然とし、もはや話が通じないことを悟ったという。そして「いいサービスにするために意見を言ったのに問題がすり替わった」と嘆いていた。

実はこれ、私もよく経験したことだ。私のみならず、意見を率直に表明するタイプの人間は誰しも思い当たる節があるのではないだろうか。「なぜ異議を唱えたか」ではなく、「異議を唱えた」こと自体がフォーカスされる。そして「とにかくうるさい奴を黙らせろ」となるのだ。これでは思考停止である。

同様の思考停止は「とりあえず謝る」といった行動にも見られる。先日私は出張でホテルに泊まった際、フロントのスタッフから差別的な要求をされた。その要求の意図を尋ねても、「えーっとそれは…規則ですので。申し訳ございません」と繰り返すばかり。そのスタッフは自分の行動がどういう目的のためなのかを全く理解しておらず、その要求自体が差別に該当するということにも気づいてないのだ。善良そうな顔をしたそのスタッフの人権意識の希薄さに背筋が寒くなったが、目的を深く考えない行動は職場において意外と見られる光景である。

実際、ミスをしたメンバーを注意したとき、「謝ってるからもういいじゃないですか」と言われたこともある。何もよくない。こちらが欲しいのは謝罪ではなく、何がまずかったのかまずきちんと理解し、再発防止策を立てること。しかし人は「怒られた」というところにフォーカスし、次に「自分が評価されていない」という誤った認識を抱く。実際、ミスを1つしたところで減点にはならない。そこから学んだことは将来の大きな加点になることはあっても。

手段が目的化するのもよくある話である。「何かを決定する/議論する」など目的があって会議をすべきなのに定例で会議をすること自体が目的になっていたり、メッセージを効果的に伝えるためのデザインなのにデザイン自体が目的化していたりと、働いている人ならば思い当たる節はあるのではないだろうか。さらに結果論を目的化してしまうこともよくある。ここ数年のバズワードで言うと「イノベーション」で、たとえば世の中にそれまでになかった新しい価値や枠組みを提供した結果、それが「イノベーション」だと評されることはあっても、最初から「イノベーション」を目的化することは「世界遺産を作る」ことを目的に新たな寺院を建設するようなものではないか。そんな寺院にお参りにいく人がいるのか。

これらはすべて「目的が忘れられた」事例である。昭和そして平成初期の「右向け右」式教育の弊害か、目的を考えずに行動することにあまり疑問を持たない人が多い気がするのは私だけだろうか。「学校ではこう決まっているから」「みんながそうするから」というだけで何かをさせられることが大嫌いだった私は小学校の頃から通知表に「協調性がない」と書かれ、自分はそういう人間なんだと思っていたが、振り返ってみるとそれは目的を考えずとも行動できる人間を量産するための評価基準だったような気すらしてくる。目的のよくわからない規則、虚礼、慣例、「伝統」「ルール」という言葉にふんわりとくるまれた差別的な習慣や言葉。私たちはあらゆることの目的にもう少し敏感になってもよいのではないだろうか。

特に仕事で起こるすべての物事には目的があるべきだ。そして人は本当に目的を理解しないと正しく行動しないし、育たない。目的が何なのか、それを達成するためには何が最善の策なのか、常にそれにフォーカスするのが仕事なのに、それを見失っていると思われる場面は驚くほど多い。そして、「目的に対して本当に最善の策がそれか」と問うと、冒頭に挙げた例のような論点のすり替えがしばしば発生する。

目的を問うのは真剣に仕事をしているからだ。それをうるさがっている以上そこに成長は望めないどころか、時間・コスト・人材等大いなる無駄が発生するだろう。「何のためにするのか」を常に示し「そのために何をするのか」を明らかにすること。それができないとただの思考停止状態である。働き方改革という言葉が注目を浴びているが、会社のルール・慣習からプロジェクトの進め方、さらには個々人がその会社で働く目的まであらゆることにおいて「常に目的を明らかにすること」を徹底するだけで、少し変わるんじゃないかと個人的に思っている。

---

前の記事

次の記事


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?