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【短編】水晶宮の都【全5話】

あらすじ:アントン・コムニーは眼鏡収集家だった。古今東西から眼鏡を蒐集していた彼は、ひょんなことから魔術師が持っていたという水晶の眼鏡を手に入れる。眼鏡をかけた途端、その先に見えた砂漠と美しい水晶の都に魅了された彼は、現代と砂漠を行き来しながら水晶の都を目指すが……。


第1話

 アントン・コムニーは子供の頃から眼鏡をかけていたので、彼の大きな特徴になっていた。
 必要があっての事だが、たまたま日本で安価で見栄えのする眼鏡が手に入ったおかげで、とびきりのお気に入りになったのだ。日本の漫画が何作か流行ったのも大きかった。漫画のジョークに倣って「眼鏡が本体だ」などと弄られていたが、アントン本人も容認していた。わざと眼鏡を外しておくと、みんなが慌てたふりをして「おい、どうしたアントン。何も言わなくなっちまった!」と眼鏡に向かって言ったりするのだ。そうして「僕はこっちだ!」とわざと怒ったりして楽しんでいた。とにかくアントンという男と眼鏡というのはほとんどイコールになっていたし、彼自身もまたそのジョークを好んで使っていた。
 だが、他ならぬアントンが奇妙な死に方をしたあのときから、友人たちはそういったジョークに対して強い拒否感を示すようになってしまった。

 とにかくアントンは自分自身でも、愛すべき特徴である眼鏡を好んでいた。自分専用の眼鏡はもとよりいくつも持っていたし、同時にコレクターでもあった。自国のブランドは限られていたから、特に日本を中心に、海外のブランドものや有名メーカーが出したものを中心にしていた。それだけではない。有名なデザイナーの最新作、アンティークの眼鏡、さらには世界的ロックバンドのボーカルがかけていたというサングラスから、高名な画家や宇宙飛行士がかけていたという眼鏡、そしてリーディングストーンと呼ばれるルーペの元祖に至るまで、こと眼鏡という枠組みのなかで様々なものを収集することに注力し、至上としていた。
 なかには有名な殺人鬼がかけていたという眼鏡まで存在した。以前、著名な殺人鬼マニアとの激闘の末に落札して勝ち取ったものだった。好敵手との緻密な攻防戦を誇らしげに語ったときは、友人たちは「こいつはもう本物のマニアにちがいない」と確信していた。
 そんなアントンだが、よく友人相手にはこんなことも言っていた。
「僕としては、早く拡張現実型の眼鏡が出ないかと思ってるんだがね」
 それを聞いた友人たちは笑ったものである。
「拡張現実の眼鏡か……、確かにまだゲームのVRもゴーグルだから、もっと手軽な時代がくるといいよな」
「漫画やアニメの世界にはまだほど遠いかな」
「ああ、でも、有名なスポーツ選手が最新型のサングラスをかけてるってのを見たことあるぞ」
 友人の言うそれは眼鏡というより眼鏡型の端末で、視界の片隅に心拍数やスピードなどが表示される代物だ。
 そんなとき、アントンはにやりと笑ってこう言うのだ。
「知っているよ。もううちにあるからね」
 そうして彼は、アスリートたちの最新型スマートグラスを手にして得意げに語るのだった。
 しかし一方で、アントンは心の底では古いものにも目を向けたいと思っていた。こればかりは市場に出回るのを待つしかなかった。新しいものはどんどん作られていくが、古いものはもうそこで終わりだ。骨董品や美術品のように、だれかが一時的に所有することはあれど、本当の意味で自分のものになることはない。ゆえに、アントンは古い眼鏡の方にも興味を持っていた。その性質を商人たちはよく知っていたのだろう。彼の家にはときおりバイヤーたちが出入りすることもあった。
 もちろん、ブランド店から最新モデルを持ってくる営業もいれば、有名なだれそれが使っていたというような逸話を持つアンティーク品やレア物を持ってくる古物商もいた。アントンは顔には出さなかったが、古物商たちを相手にするときはよくよく相手を見ていた。相手が詐欺の可能性もあって、たいてい騙せないと知るや引き下がるが、なかにはしつこくつきまとってくるようなのもいたからだ。アントンは古いものに手を出す反面、慎重に事を運んでいた。

 そんなときだった。
 ひとりの奇妙な古物商が接触を図ってきたのは、本当に唐突だった。
 彼は約束もないままアントンの家へとやってきて、チャイムを鳴らした。アントンはちょうど家にいて、暇を持て余しているところだった。まるで自分自身、チャイムが鳴るのを待っていたと言わんばかりの頃合いだった。それでも怪訝に思って「はい」と返事をすると、相手は古物商をしているムスタヴィだと名乗った。聞いたこともない名前だったが、これもまた運命だとばかりにアントンはドアを開けた。
「失礼。あなたさまが珍しいもののコレクターだとお聞きしまして」
 目の前に現れたのは老人だった。目には深く刻まれた皺があり、どことなく浅黒い肌に白い髭を生やし、ターバンめいた古い帽子をかぶった姿は、ホームレスと見紛うほどだった。上には真新しいオレンジ色のジャケットを羽織っていたが、そのちぐはぐさが余計に際立っている。おまけに持っていた大きな荷物もところどころすり切れている始末だ。
「すまないが、僕は眼鏡専門のコレクターでね」
「それならばあなたにとっても悪い話じゃありませんや。古い……、逸話のある眼鏡を持ってきたのです」
 こういった古物商はよく現れた。これは失敗だったかとアントンは思ったが、とにかくそのムスタヴィ老を家にあげることにした。
 眼鏡と聞いては、一度見てみないことには判断できないからだ。
 いままでだって、珍妙なものを持ち込んできた古物商はたくさんいる。それでも古いルーペを手に入れられたのは、そうした古物商からだ。実際に見てみないことにははじまらない。いざとなれば警察を呼べるようにもしてあった。
 アントンはムスタヴィ老を客室に通すと、挨拶もそこそこにさっそく持ち込まれた品を見てみることにした。テーブルを挟んで向かい合ったアントンは、見下した態度になってしまいそうなのを必死にこらえた。
「こちらです」
 古いケースの中から出されたのは、これまた古いタイプの眼鏡だった。よく知られた眼鏡とは違い、ブリッジも耳にひっかけるツルもない。ルーペ状のものが金具で固定されたような形だ。古いものではあったが、珍しいかと言われるとそうでもない。特にアントンからすれば見慣れたタイプでもあった。やはり見誤ったらしいとアントンは小さくため息をついたが、ムスタヴィ老は表情を変えなかった。
「わたしが説明する前に、どうぞ手にとってかけてみると宜しいでしょう。あなたさまがもしも本物だとするならば、いったいわたしがなにを持ち込んだのかすぐにわかるでしょうから」
「かけてみろって?」
 苦笑しながらアントンは眼鏡を手にとり、自分の眼鏡をとって隅に置いた。なにか妙なことにならないうちに、この老人を追い出す手段を考えようとした。
 だが、たちまちのうちにそんな考えは吹き飛んでしまった。
 アントンは目を見開いた。
 眼鏡をかけた途端、彼の家は取り払われ、ただひとり砂嵐の吹きすさぶ砂の荒野に立っていた。いや、実際にはとつぜん尻餅をついていた。さきほどまであったソファは無くなり、テーブルの感触も消え去っていた。ハッとしてなんとか立ち上がる。アントンは突然そこに放り込まれたように、熱波と風に晒されていた。靴の底にはさきほどまでいた絨毯の平たい感触ではなく、柔らかく降り積もった砂の感触があった。わずかばかりに足を動かせば、分け入るように砂の中へ足が沈む。吹き付ける砂嵐は体に当たり、小さな痒みのような痛みさえ与えてくる。それはすべて現実だった。たとえ老人がアントンに砂をぶつけていたとしても、視界までジャックするような技術を持ち合わせているとは思えない。慌てて、遠くの方を見る。どこまでも続く砂の荒野の向こう側に、なにかが突き出ている。石柱のようなものがいくつも天に向かっており、最初は石造りに見えたそれは明らかに都市のようだった。もっとよく見ようとすると、そこで砂嵐が一時的にやんだ。その向こうから現れたのは、美しい水晶の都市――かくも心をざわめかせる壮麗な都市がそびえ立っていた。


第2話

「あ……、こ、これは……!?」
 その不可思議な光景にアントンは自分の目を疑った。そうして目をこすろうとしてようやく眼鏡の存在に気がついた。ツルのない眼鏡の存在に、アントンはハッとした。フレームの部分を掴むといとも簡単に取り払われ、それと同時に目の前の荒野と水晶の都市はたちまちのうちに消え失せていた。アントンは呆然と立ち尽くし、テーブルの向こうにはさきほどのあの小汚い老人が――ムスタヴィ老が感慨深い目で自分を見上げていた。現実に戻されたアントンは、混乱と気恥ずかしさのままにソファに座り込んだ。
「す……、すまない。いま……、いま……」
「そうですか。あなたさまは見ることができたのですね」
 ムスタヴィ老はなんとも言いがたい表情をした。
「その眼鏡は、眼鏡であることよりも、その水晶に価値がある代物でしてな」
「水晶で? でも水晶なんて……」
「それ自体は、不思議なことではありませんや。そうでしょう?」
 彼もさんざんだれかに話してきたことだ。
 もともと、眼鏡がいまでいう視力の補助として使われ出した頃は、リーディングストーンと呼ばれる石を使っていた。それは主に石英や水晶で出来たレンズで、ルーペのように文字の上に乗せて使っていたものだ。実際、現在でもレンズに水晶を使ったものは存在する。これもその一種だと言いたいのだろう。しかし、それでも。
「この水晶は」
 ムスタヴィ老はアントンを無視するように口を開いた。
「百年ほど前に、ある砂漠で発見されたものです。もともとはそれよりもずっと昔、砂漠に住んでいたとある魔術師が持っていたものでした。この時代に魔術師――などと言われるでしょうが、実際そう名乗っておりましたからな。実際、彼には違法な……殺人や、それこそ呪術を使用したといった嫌疑がかかっており、当時の警察が何度も探したといいます。ところがある日、突然彼は蒸発しました。家の中に残された物品はほとんどがガラクタばかりだったといいますが、金品の類は周辺の者たちによってあっという間に持ち去られてしまいました。そうして持ち去られたもののなかで、この水晶だけは特別でした。なにしろ本人が、この水晶は特別で、美しい都市へと向かうことができると公言していたのですからな」
「……」
 アントンは目を丸くしたが、ムスタヴィ老は構わずに話し続けた。
「多くの人々は信じておりませんでした。いえ、信じてこの眼鏡をかけたとしても、魔術師が言うようなものは見えませんでした」
「そ、それは……あなたも?」
「はい。わたしには見えませんでした。これをかけても、普通に見えただけです。しかし、この不思議な水晶を手に入れた人々のうち、わずかな人々は――なにかに魅せられたように、この水晶を手放すことはありませんでした。たとえ騙されていると説得されても無駄だったといいます。そのわずかな人々が言うには、美しい水晶の都市が見えていたと。もちろんその人々が、なんらかの精神的な病を患っていたという噂もあります。しかし実際のところ、彼らは何度も砂漠に足を踏み入れて実在しない都を探そうとしたり、むりやりに水晶を手放した後も、何かに後悔し続けるように過ごしたといいます。彼らには何が見えていたのか、わたしにはわかりません。しかし、もしかしてと思うのですが……、その都市とやらは砂漠にあったのではと思っています」
 アントンはもう少しで頷いてしまうところだった。
「わたしには手に余るものです。これはどうか、あなたが持っているべきものです」
 ムスタヴィ老はそう言うと、テーブルに置かれた眼鏡をケースに丁寧にしまってからもう一度差し出した。そのとき、アントンは差し出された手が震えているのを見た。もしかしてこのムスタヴィ老も、その都市を見たのではないだろうか。そうして彼の手に余ると判断して、この水晶の眼鏡を持ってきたのではなかろうか。いずれにせよこの不可思議な眼鏡を持て余しているのは事実のようだった。
「いや……、いや、ちょっと待ってくれ」
 アントンは自分の眼鏡をかけ、勢いよく部屋を飛び出した。そうして僅かばかりの金を包んで持ってきたとき、老人は既に荷物をまとめて外へと出ようとしているところだった。アントンは金を差し出したが、ムスタヴィ老は少しだけ嫌がった。アントンも口止め料として断固として譲らず、老人は青ざめながらも結局は礼を言って受け取っていった。
 アントンは老人が行ってしまったのを見送ってから、取り残された家のなかで深いため息をついた。なんとか自分を落ち着かせようとスーツのポケットに手を入れて、ギョッとした。ポケットの中にはどこから紛れたかわからぬ砂粒が入り込んでいたのである。あわてて自分のスーツを手で払うと、ぱらぱらと細かな砂粒が床に落ちた。真っ青になって髪の毛を触ると、砂粒のカリカリとした感触が爪に入り込んだ。あわててバスルームに駆け込んでシャワーを浴びると、タイルの上に砂粒が落ちていくのを感じた。
 ――あれは、まぎれもない現実だったのか?
 アントンの胸のうちでは、恐怖よりもまだ見ぬ冒険心と興味が上回った。なによりあの壮麗な都市が素晴らしいものに思えて仕方が無かった。


第3話

 アントンは次の日、部屋のなかをすっかり片付けてから老人が置いていった眼鏡を手にした。
 家には鍵をかけ、だれか来ても出ないようにしてある。
 昨日のことは幻だったのか、もしかしたら最新のVR機器かもしれない。そのほうがまだ現実的な気がする。しかし妙にバカバカしい考えに思えた。
 アントンは意を決して、古めかしい眼鏡を掛けた。

 あたりの景色は一瞬にして変わった。
 やはり、砂漠の向こうに立ち尽くす壮麗な都が見えた。足を動かす。VRの世界なら、その場で足踏みをして移動するものだが、アントンはしっかり前に歩いていった。どこまで行っても壁にぶつかることがない。思わず走り出す。さらさらとした砂に埋まりそうになりながら、アントンは走り出した。本来ならもう壁を越えて、家の外まで出ているはずだ。けれどもそんな制限はどこにもなかった。
 砂の高台に立つとその景色がよく見えた。遠くに臨むその都市はやはり存在している。
 ああ、やはり、あれは幻などではなかった!
 アントンは壮麗な都に向かって歩き出した。砂の高台を滑るように降り、できるだけ靴の中に砂が入らないよう気をつけて歩く。足が埋まりそうになりながら歩く。周囲は湿気もなくからりとしているが、空はいつでも黄色く霞んでいた。太陽はぼやけて滲んでいるものの、暑さはやはり砂漠のようだ。せめてタオルか何かをかぶってくれば良かったと思う。周囲は見やすいが、ときに吹く乾いた風は砂を巻き上げ、そうなると目の前の景色はたちまち黄色く滲んでしまうのである。アントンは何度も巻き上がる砂に立ち向かった。眼鏡のなかにさえ砂が入り、口のなかに侵入してくる。乾きかけた口から必死に砂粒を吐き出し、指を突っ込んで小さな粒を出そうとする。乾いた喉が痛む。
 水晶の都が少しずつ近づいていた気がしたが、その道のりは遠い。アントンが思わず汗を拭うと、眼鏡が外れて途端に現実の部屋の中が現れた。
「はあっ、……はあっ……!」
 アントンは部屋の中心で全身汗にまみれて、砂粒を浴びていた。周囲を見回すと、何も変わっていなかった。時計の長針が二回りほどしていた。手に持った眼鏡を見る。途端に喉がぐっと痛み、咳き込む。たとえ何度も咳き込もうとも、眼鏡だけは守った。震える手で眼鏡をテーブルに置くと、一気にバスルームに向かって走った。洗面台の前に立ち、何度も喉の奥を洗って、その勢いのまま頭から水をかぶる。ただでさえ汗で濡れていた衣服が余計に濡れた。
 ――今日はここまでか……。
 アントンは落胆して、疲弊しきった体を休めることにした。
 シャワーを浴びて汗と砂を落としたあと、ソファに体を投げ出すと、本当に砂漠を横断したかのようだった。いや、確かにあれは現実なのだ。そうでなければ、現実に戻ってきた時にあれほど汗と砂にまみれているはずがない。
 あの砂漠を渡るのに、きっと何かが必要になるはずだと確信していた。

 アントンは少しずつ、この砂漠の世界での状況を観察することにした。まず次に眼鏡をかけた時に、自分がどの位置にいるのかを確認した。砂の高台が後ろに見えることを確認すると、進んだ分はきちんと更新されていることに気付いた。それこそゲームの自動セーブ機能のように。

 それから彼はまず、衣服から整えることにした。
 できるだけ砂漠に適した、頭からすっぽり覆うことのできる服を選んで身につけた。それから持ち物をどの程度持ち込めるかもいろいろと試した。最初のうちは凍らせたペットボトルや食糧を持ち込もうとしたものの、完全に体に身につけていなければあの世界に持ち込めないと気がついた。いざ眼鏡をかけ、持ち物を自分の足元に置き忘れたことに気付いて出鼻をくじかれることもあった。
 現実に戻る際に持ち物を日陰に隠して埋めておいたものの、次に出向いた時には何かの獣に荒らされていることさえあった。そんなとき、彼の心臓は跳ね上がった。ここにいるのは自分だけではないのだと否応なしに自覚させられた。もしかしたら他の人間もいるかもしれない。荷物は背負えるようにして、いつでも取り出せるようにした。
 最近ではハイキングやキャンプ用に様々な製品がある。アントンがそうした製品を買い求めたり助言を求めたりするのに、友人たちはとうとう眼鏡から外に出るようになったかとからかった。アントンは適当に返事をして、ちょっとね、と言った。
 だがそうした彼の努力をよそに、水晶の都への旅は単純なものではなかった。
 ここはただの砂漠ではなかった。時に砂嵐で隠れていることを余儀なくされ、時に空を横切る巨大な影に怯えることがあった。それは鳥ではなく、巨大な悪魔にも竜にも見えるような影だった。明らかにここは現代ではないのだと理解できた。巨大な豚のようなものがのっそりと目の前を通過していくのを、息を潜めてやり過ごさなければならないときもあった。
 眼鏡を外せばいいという考えは、そんなときに吹き飛んでしまう。もしかしたら安全な場所で眼鏡を外さなければ、向こうから奴等がやってくるのではないかという恐怖があったからだ。アントンの慎重さはそうしたところでも出ていた。
 おまけに砂漠は時間の進み方が違うようで、昼間に眼鏡をかけたにも関わらず、向こうは夜であることがあった。そんなとき、視界の悪い砂の向こうから何かの獣のような声がすることがあった。月明かりを頼りに進もうとしても何も見えず、そして正体のわからぬ獣の存在を感じてはそれ以上進むこともできなかった。そんなときこそアントンは慎重に眼鏡を外し、今日の探索を中止にせざるをえなかった。


第4話

 アントンの旅は慎重ではあったものの、終わりに近づいてきていた。
 岩場の高台に上がって前を向いたとき、あまりのことにアントンは息を呑んだ。
 その向こうにはついにあの壮麗な都が姿を現したのだ。街の礎となる土台の上からは石柱がいくつも聳え、入り口には巨大な獣が二対、これもまた水晶で作られたと見える目玉で睨みをきかせている。その間を何人もの人々が行き交っている。ぱらぱらと見える人々はアントンと変わらぬ人間に見えた。砂漠の人々と同じように、少しだぶついたローブのような服を着て、頭にも布を巻き付けたり、フードのようにかぶったり、垂らしたりしている。
 アントンは感極まったように深呼吸をした。熱気が肺のなかへと忍び込んだが、その熱気さえここが現実だと否応なしにたたき込む材料にしかならなかった。砂のなかから顔を出す岩場で引っかけないようにしながら、なんとか岩場地帯を抜けた。はやる心をおさえ、砂の上を転びそうになりながら降りていく。やがて巨大な獣が守護する入り口までやってくると、アントンは目を見開いた。思わず眼鏡を外してしまわないように、リュックの肩紐に手をかける。そうして彼は、他の人々と同じように水晶の都に足を踏み入れた。
 都は、ずっと外から見ていたよりも繊細だった。作りは大きな神殿のようで、上を支える柱にはガラスのように細かな彫刻が施されている。土台にもあちこちに彫り物があり、道の両側には清らかな水が流れている。空気は清浄で、隙間に入り込んだ砂粒はあっという間に外へと流れ出てしまう。美しく整備されていた。こんな場所はいままでに見たことがなかった。
 アントンがぼんやりと見ていると、周囲の人々は彼のことを不可解な目で見つめた。はっとして、アントンは視線から逃げるように歩き出した。
 ――それにしても……。
 いったいどこへ向かえば良いのだろう。宿やホテルのようなものはあるだろうか。巨大な神殿にも見えるが、建物はひとつひとつ分かれている。店はあるのか、果たしてどのようなものが売りに出されているのか興味は尽きなかった。

 あえて人通りの多い場所へと足を運ぶと、そこは市のような場所だった。それこそ砂漠のマーケットを彷彿とさせるような場所だ。アントンは目を輝かせ、周囲のマーケットで売られているものに目を見張った。日常的に使われるような籠や小さな入れ物から、色とりどりの布や絨毯。天井から吊された服。壁に並んだ毛糸。なんの肉かわからないピンク色の固まり。見た事も無い赤や緑の果実。どれひとつとして同じ形のもののないランタンや、奇妙な目玉の装飾、何に使うのかわからない銅製の網のようなもの。
 アントンはそのひとつひとつに目を奪われた。
 中でも、ランタンのひとつは珍しかった。中で輝いているのは普通の炎ではなく、赤い水晶だった。つまみを調節すると、なかで赤い水晶が輝くのだ。燃料はいったい何かと問うと、店主は不満そうな顔をした。
「燃料じゃない。こいつは偽物なんかじゃないぞ。本物の夜光石だ」
 アントンは必死で謝り、本物かどうか確かめただけだと言った。実際はそんなもの見た事なかった。光る石など――あるとしてもここまで光源として機能するものなどあるとは思わなかった。
「物々交換でどうだい」
 アントンは荷物をひっくり返すようにして、アルミのカップや丈夫なロープや、固形燃料などと交換していった。どうせ現代でまた手に入る。惜しくはなかった。彼らはどこのものかわからぬ硬貨や紙幣よりも、そうした日用品と交換してくれるほうが多かった。
 そうしていくらかの品を手に入れて、興奮冷めやらぬまま歩いていたときだった。奥まった路地で露天を開いていた老人が顔をあげて、アントンのほうを見た。
「おや、あんた。そう、あんただよ。そこの眼鏡をかけた……」
「僕のことか?」
 アントンは視線を向けた。
「ああ、そうさ。あんたのことだよ。ここに客人とは珍しいじゃないか」
「残念だけど、僕は金を持っていないぞ」
 わざわざ路地の奥まで行こうとは思わなかった彼は、適当に受け流すつもりだった。
「なに、金が目的じゃない。珍しいと思っただけさ。あの魔術師以外にそんなものを持っているやつがいるなんてね」
 アントンはしばらくその意味を考えていたが、眼鏡のことだと気付いた。
「知っているのか?」
 思わず人並みから逸れ、露天の老人の前に立った。
「おお、知っているとも。その眼鏡の水晶は、ここで作られたものだからな」
「なんだって?」
 この眼鏡の水晶は、この都市にあったものなのか。
「知らなかったのかい」
「あ、ああ」
「それじゃああまり長いことここにいるのは感心せんよ。あの魔術師に見つかったら、もうここから戻れなくなるだろうからな」
 アントンは耳を疑った。
「魔術師がここにいるのか?」
「なんだ、あんた、何も知らないのか」
 老人は肩を竦めた。
「あいつはな、元いた世界から逃げてきたんだよ。元の世界でやり過ぎたんだ。どうせ魔術を使ってろくでもないことをしていなかったんだろうさ。もったいないことだ……。そうしてこっちに逃げてきたんだ、追っ手から逃げるためにな。だけどそのときに、眼鏡を置いてきたんだ。元の世界を断ち切ってね」
「そ、そうなのか……だけどそいつはもうずっと昔の話だぞ」
「あいつはまだ生きているよ。こっちに来てね。お前さんが魔術師の水晶を持っていることを知ったら、ただでは済まないだろうさ。命が惜しければ、引っ込んでいることだな……」
 アントンは礼を言って老人から離れた。
 そうしてもうしばらく街の中を散策しようとしたが、さきほど言われたことが頭から離れなかった。どこかから視線さえ感じる気がした。急いで一人になれる場所を捜して隠れると、そのままゆっくりと眼鏡を外したのだった。


第5話

 眼鏡を外したアントンは、リュックの中から出てきた珍しい品々を手にして興奮していた。
 まちがいなくあの世界は現実だった――アントンは同じくコレクター仲間で信頼できる何人かに連絡をとり、「旅行先で珍しいものを手に入れた」と言って呼びつけた。
 さすがにランタンは見せられなかったが、布織物や蔓で作られた籠などを見せると、ほう、と目を見張った。中にはそれほど興味を示さなかったものもあるが、黄金色の茶器や織物には興味を示したようだった。
「この織物模様なんかはじめて見たぞ。どこのもので、どうやって作っているんだ?」
「さあ、それがちょっとわからなくてな……」
「わからないってことはないだろう」
「砂漠のマーケットで手に入れたんだけどな。いくつか寄ってみたから、どこのマーケットだったか忘れてしまったんだよ。商人も隊商みたいなもので来ているらしくてね。もしかすると、どこかの少数部族かもしれないんだ」
 コレクター仲間はアントンが突然そんな場所に出かけたことにも驚いていたが、布の完成度には感心していた。
 さらには黄金の茶器を見て、何度も重さや形を確認している。
「こいつは――まさか本物の金か? かなりの値打ちものだぞ」
「ははは。まさか」
 アントンは笑ったが、内心では本物かもしれないと思い始めていた。
「それに、このランプ!」
 それはオイルランプの類だったが、施された装飾は細かく、人間業とも思えなかった。あちらの世界ではランタンといえば光る石をセットしておくものらしいが、炎を楽しむものもあるようだ。だからこのランプは装飾のほうに力が入っていた。滑らかに円を描くようなガラスの胴体には、細かな装飾が施されている。ガラスに見えるがおそらく水晶に違いない。円形の胴体を包み込み、真鍮のような色合いの金属が支えている。洒落た作りといえばそれまでだが、その細かな意匠は一朝一夕でできるものではない。
「今度、もう一度行く予定があるんだ。もし良ければ……」
「本当か!」
 彼は――彼らは明らかに興奮していた。
「次も持ってきてくれるなら、こっちからもコレクションを融通しよう。お前が欲しがっていたサングラスとかな。わかるだろ、ジャズの……」
「本当か!?」
 今度はアントンが興奮する番だった。
 こうして協定は交わされたのだ。

 アントンは向こうの世界で興味を持たれそうなものをいくつか手に入れて、物々交換用に持っていくことにした。必ずしも硬貨や紙幣が必要でなくて良かったと思った。
 前回、興味を持たれた固形燃料やアルミのカップなんかをいくつか携え、もう一度あの世界へと赴く。そうした交易を何度も繰り返し、彼らが何に興味を持つのかをリサーチした。時には売買で向こうの硬貨とおぼしきものを手に入れて、ごく普通に買い物をすることもあった。
 アントンはそうして交換を繰り返し、価値の高いものめがけていった。
 だがそうしているうちに、ふとマーケットの中で不意に視線を感じることがあった。それは本当に不意に現れ、マーケットの片隅や闇の中からこっちを見ているような気さえした。最初のうちは気のせいだと思っていたものの、次第に魔術師の話を思い出した。
 ――もしかして、魔術師が?
 あの老人に言われたように、魔術師はまだ生きていて、もしかして自分を追っているのだろうか。確かに、少し目立ちすぎた気がする。実際、あの世界に無いものを次々に持ってきている彼は、マーケットの中で少し顔が知れてきていた。声を掛けられることも増えた。それなら視線も――きっと気のせいだ。魔術師がそれほど恐ろしい人物だというのなら、もっと早くアントンに狙いを定めているだろう。そう自分に言い聞かせる。
 おまけに、どことなく慣れてきたせいか、眼鏡をかけた時に目の前を通る人物に驚かれたことがある。いつの間にか現れたであろうアントンをじろじろと見たあとに立ち去っていったのが見えた。人のいないところで眼鏡を外しているつもりだが、少し緊張感が無くなってきたのも事実だ。
 ――うまくいってきているんだ。
 だからきっと大丈夫だと思っていたが、アントンは自衛のためにも銃を持っていくことにした。
 いつでも取り出せるように手にして、わけのわからない輩に急に絡まれても大丈夫なようにした。
 魔術師と言ったって、自分がそう名乗っていただけだろう。まだ生きていたとして、この百年だか二百年だかずっと異界に引きこもっていたというのなら――その技術の発展も気付いていないだろうと踏んだのだ。
 アントンはその日、銃を手にして眼鏡をかけた。
 目の前に男が一人居たが、それだけだった。アントンは服の中で銃の引き金に指をかけながら、ひどい緊張から解放された。下手に騒ぎを起こすのも憚られる。結局、水晶の都市で自分を狙うものは何もいなかった。

 そうして、アントンは再び水晶の都をうろついていた。
 見た事のある通りにさしかかったとき、不意に聞いたことのある声がした。
「お前さん、まだこっちに居たのかね」
 以前出会った老人が渋い顔をした。
「爺さん! 久しぶりだな」
「魔術師に気をつけろと言っただろうが」
「気をつけてはいるさ。武器もある」
「そうかい。まあ、いいさ。お前さんが選んだことならな。今度はなにか買っていくかい?」
「ああ。物々交換でも大丈夫か?」
 老人は物によるとだけ言って、アントン相手に自分の露天の品をすすめた。
 アントンはいまやこの街で、そこそこ顔が知れてきていた。きっとあの老人が気にしすぎであると思っていた。友人たちからのリクエストに応え、念願のサングラスを手に入れるためにも、もう少しここで硬貨を集めなければならない。あと一枚、ラグかランプを手に入れられれば、秘蔵のサングラスを譲ってくれると友人が言っているのだ。それを逃すわけにはいかなかった。

 アントンはそれまでに集めた向こうの硬貨と、新たに手に入れた交換用の品を手にして、もう一度だけあの世界に行くことにした。
 しかし、眼鏡をかけようとしたそのときだった。
 正確には、眼鏡を手にとり、視線を落として顔に持っていったときだった。水晶の向こう側には相変わらず美しい都の風景が見えていたが、その先には古びたローブと靴が見えていた。普段そうしているように、腕は自然と顔へと向かっていた。あ、と思ったときにはもう遅かった。目の前に、こちらに向かって手を伸ばす男がいたのだ。魔術師だとすぐにわかった――ずっと待っていたのだ! 眼鏡を外す場所を複数持っておくべきだった。銃を手にしようとしたが、そう思っても既に遅かった。彼の両手は耳の近くまで来ていた。かの水晶の世界が視界をすべて埋めるまえに、眼鏡がカチャンと音を立てて床に落ちた。

 それからしばらくして、友人たちは警察を伴って彼の家へと赴いた。
 何度連絡をしても、家に行っても反応の無いアントンを心配し、彼らは警察を呼んで押し入ったのだ。
「おい、アントン?」
 彼らは声をあげ、アントンを捜していった。
 部屋が荒らされ、彼の服や靴が無くなっているのを見ると、彼らはイヤな予感を隠しきれなくなった。きっとこの分なら他のものも無くなっているはずだ。
「アントンさん! 居たら返事をしてください!」
 警察の声にも反応はなく、やがて彼らはアントンの部屋だった場所に踏み込んだ。そこは家具がすっかり周囲に片付けられていた。そのテーブルのひとつに彼の眼鏡が置かれていたが、床の中央では、彼の衣服が落ちていた。
 正確には彼の頭だけが転がっていた。胴体のあるはずの場所には、服と、服の形に積み上がった砂だけがあった。彼の体だけが砂となってしまったように。そうして絶句する彼らの目の前で、風によってさらさらと流れていったのである。

 こうしてアントンは頭部だけを残して死んだ。
 そしてアントンが手に入れた水晶の眼鏡は家のどこにもなく、彼の死とともに消え失せてしまったのだった。


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