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世界は「モノ語」で溢れ創られてることに気づく

「言語」と聞くと何を思い浮かべるだろう。たぶんみんな共通にしてイメージするのは、「日本語」とか「英語」とかの言葉のことだと思う。それをもっと細かく表現すると、「国というコミュニティー内の人たちが共通にして使う音の振動や文字」だと言える。それは人と人が意思疎通する時には必要不可欠なもの。でもそれだけじゃない。人間が生活する中で触れる言語はもっとありふれて存在する。

ちょっと見回してみれば分かる。例えば、信号なんかは青になれば「進んでいい」と言ってる。川の水がものすごい勢いで流れてたら「危ない」と言ってるかもしれないし、ウォータースライダーの水なら「楽しいよ」と言ってるかもしれない。

そう、ぼくらは気づかない内にいろいろな声を拾って生活してる。パッと思いつくもので次のようなものがある。

音の軽快さ、重さ。光の明るさ、暗さ。色の明るさ、暗さ。触り心地の硬さ、柔らかさ。味の甘さ、辛さ。表情の笑顔、泣き顔。体の形、大きさ、小ささ。水の滑らかさ、硬さ。

もちろん言葉も人間がもつイメージが乗っかることで意味を生み出す。このように「モノ」が出す言語(「モノ語」といえばいいかな)がぼくらの生活にはありふれていて、あらゆる表現を司ってる。逆に言うと、ぼくらは、体に備わってる感覚器官で受け取るもの一つ一つに細かな意味付けをしてる。それがあって初めて「デザイン」がその役割を全うすることができる。

もし、色に言語的な意味が無かったらどうだろう。真っ赤に書かれた太陽と黄色で書かれた太陽の区別がつかなくなってしまう。そうして、あらゆるものが単一で違いのないものになる。すると、絵に色をつけてもつけなくても、同じものになって全然面白くない。まるで白黒テレビを眺めているようなものだ。いや、白と黒の明暗があるだけでもデザインが成り立ってしまうから、白黒テレビもダメ。言うなれば、色の言語が無い世界の絵というのは「真っ白なキャンバスという絵」のようなもの。なんか変な感じだけど。だからこそ色という言語はデザインにとってとても大切

実は、モノ語は人間の感覚器官で受け取れるものだけじゃない。ぼくは「人の思い」や「心」といったものも言語として受け取れると思ってる。それは日常生活をしていれば誰でも頷けることだと思う。そして、それを裏付ける根拠として、水の持つ不思議な性質がある。

にわかには信じられないけど、水には言葉を結晶という形にして映し出す役割がある。「ありがとう」なら綺麗に整った結晶が形成され、「バカ」なら汚くて全く整わない模様になる。つまり、言葉を受け止めてその意味を表現する受け皿として働く。ここで疑問に思うのが、果たして水に言葉の意味を汲み取る力があるのかどうかだ。「ありがとう」という言葉は日本人が生み出した感謝の言葉に過ぎない。そして人が誕生させたものを水が受け取れるとは考えにくい。

となると、考えられることは1つ。水は「ありがとう」に込められた「人の思い」を物理的な形として美しい結晶に反映させているということ。これはとても興味深い。なぜなら、この事実が、ぼくら人間の「思い」という現在のテクノロジーでは感知できないものすら言語として存在しているんだということを示しているから。

そして、ぼくらはその思いをも感じ取ることができる。もっと正確に言えば、人の表現にはそのときどきの思いが乗っかっている。相手が笑顔を浮かべていても、楽しい気持ちで作るのと悲しい気持ちで作るのとでは全く別の笑顔になるように。

言語と一言に言っても、そこにはあらゆるバリエーションを伴った深淵な世界が広がってる。日常を過ごす上で、様々な意思を持った言葉の声にもっと耳を傾けてみたい。

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