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新装版 A.P.ルリヤ著『言語と意識』(金子書房)レビュー その2

文の理解・表出について考える

子どもは最初単語で話しているが、次第に語彙の数が増え、それにつれてことばを組み合わせて文章を話し始める。それはことばが秘める無限の可能性に気づいたことを意味している。

最初は「あっち行く」「ママ来た」といった二語文の形態でも単語的な表現が多いが、2歳後半から3歳前後になると助詞が少しずつ出てきたり「犬がダーッと走っているよ!」といったより複雑な内容となり、自分が話したいことをより的確に表現しようとことばの探索を始める。

動詞や形容詞の活用を試行錯誤し、大人ならまず言わないような間違えをするのもこの時期だ。「ピンクい靴」や「かむ!」(親が「〇〇でもかまわないよね」というのに反論して)といった面白い発言は小さな子どもたちと接した経験がある人なら枚挙にいとまがないだろう。

この頃の子どもたちはちょっとした言語学者だ。この辺りのエピソードや解説は以前にもご紹介した『ちいさい言語学者の冒険』(広瀬友紀著 岩波科学ライブラリー)にたくさん載っている。

文には複数の意味がある!?

面白いことに多少の違いはあれどもどの言語でも文章については一定のルールが存在する。アメリカの言語学者チョムスキーの生成文法理論が有名だが、ルリヤはこの理論に一定の評価をしつつもより深い考察を展開させている。

発話の出発となる最初の内的意図には、必ず、二つの構成成分が含まれる。すでに前に述べたように、それらは言語学で、「テーマ」、「レーマ」と呼ばれているものである。発話の対象となり、主体にすでに知られているものは、ふつう「テーマ」として表示される。そして、その対象についてもまさに述べなければならない、しかも発話の述部構造をなす新しいもの、これは条件づきで、「レーマ」として表す。これら二つの成分が、出発点となる最初の思想、つまり、将来の言語発話に潜在的に参加しなければならない結合形をなしているのである。(p.251)

かなり厳密に書かれているため、言語学を学んでいなければ一体何を言わんとしているか一度読んだだけでは頭が混乱するだろう。

例えば私は言語聴覚士の仕事などで外出することはあるが、我が家は基本在宅ワークカップルなので、食事の時間を忘れがちな夫に「今何時ですか?」とメッセージを送ることがある。

この文章の内容だけに反応するなら「○時△分」と答えればいいが、勘のいい読者なら「早くご飯食べてよ!」や「ご飯作る約束、忘れているでしょ!」という私の見えない感情の機微が見えるだろうし、時間を守ることが望ましいという暗黙のルールが前提に存在する。

つまり、文を理解するには場に関するルール(約束した時間に行動する)や知識(語彙はもちろんだが、それまでの経験など)といった私が発した文章を取り巻く状況が大きく関与する。ブルデューの『ディスタンクシオン』で指摘しているハビトゥスや界といったものだ。

この点に関しては機械に文章を理解させる場合どのような問題が出てくるのか?を知っておくとより分かりやすくなる。人間なら多少曖昧でも文脈やそれまで蓄積している知識で補うが、機械だとそうは行かない。全パターンを教師データとして入力し、前後の文章から判断するよう設定をする必要がある。

人工知能(AI)が考えているかは議論が分かれるところだろうが、少なくともヴィゴツキーが内言と称したもの(私たちが頭の中でことばを使って思考すること)を現段階でAIがしているとは考えにくい。

そして、人間の思考や意思は文章や内言の発達と深い関わりを持っているとルリヤが述べていることは重要な点だ。

意識は文章の発達とともに

私が初めて発したことばは「ねえ、本読んで!」という文章だったそうだ。当時4歳を過ぎても音声言語を全く話さない私に母は「もう、この子はことばを話さないのかも」と半ば諦めの気持ちを抱いたそうで、あの日のことは一生忘れないと記録に書いている。

で、話した方はどうか?というと残念なことに一切覚えていない。母に幼い頃の話を色々言われても、当時父が撮った写真を眺めても一向に思い出せない。そして、そこに写っている自分は自閉症スペクトラム障害の特徴がにじみ出ていて、今や貴重な記録だ。

ところが話し出してからのことは意外と覚えている。まさに言語は記憶のツールだし、話す(もしくは明確な意図を表現してコミュニケーションをとる)がいかに人間の意識に深く関わっているかを示唆するエピソードだ。

一方で私は文字を手がかりにことばの存在を知ったからか、成人後も話し言葉へのコンプレックスを抱えていた。しかし、夫に出会って彼の話し言葉の様子にびっくり仰天し、「完璧を求めなくてもいいのだな」と妙に気が楽になった。

話し言葉は文字言葉に比べて文法や時制がかなり曖昧で、前後文脈を把握しつつ、コロコロ変化する話題を制御する必要がある。大半の人は無意識にやっているが、私の場合マニュアル車を運転するようにその都度ギアチェンジしないと途端に会話が噛み合わなくなる。

夫の場合ADHD(注意欠如多動性障害)の傾向も強いため、下図のような減少が頻繁に起こる。そのため、私が( )内の事項を確認するのが文字通り暗黙のルールとなっている(画像は講演の際作成したパワーポイント資料)。

発達障害と暮らす_20191228

そして、書き言葉の文章の考察についてヒントをくれたのが我が父だ。元々ディスレクシア(読み書き障害)の傾向があったことに加えて戦争であまり勉強できなかったからか、文字言葉のような表現はとにかく苦手で、契約書などを読み解くことが難しく、私が「こう書いてあるよ」と伝えると「そんな事が書いてあるのか?」となり、よく確認すると全然違う解釈をしていることがあった。

だいぶそのことで本人もだが、母も苦労していた。長い間疑問だったが、この本の中でルリヤがその謎を紐解いてくれた気がしたし、私の中にあった長年の疑問についてより深く考える洞察を与えてくれた(p.278)。

そして、ロシア革命後の旧ソ連で革命前に文盲だった中央アジアの農民が書字言語を習得したことで論理的思考などに変化が出たという記述があった(p.341-342)。

ここに記されている内容は父が育った環境と類似点も多く、父の抱えていた悩みの片鱗に少し触れた気がした。

違いを知るということ

私がヴィゴツキーやルリヤに惹かれるのは、恐らく彼らが言語病理学の臨床経験に基づいた考察があるからだろう。ルリヤは第二次世界大戦中に軍医としてリハビリに従事していたそうだし、言語の機能について知るため、脳の局部損傷を受けた人たちの状況を詳細に調査・研究している。

このように、われわれは、病理的な場合を介して正常な場合にもどるのである。というのは、「病理的研究は、生理学的に正常である場合に、われわれが気がつかないもの、全体的で未分離なものを、分解させ、簡素化しながら、われわれに明らかにしてくれる」(И.П.パブロフ)からである(p.350)

最後の部分は失語症や高次脳機能障害についての説明となっており、この箇所についてはもう少し考察したいところなので、この一連のレビューの総括としてまた改めて記事を書きたいと思う。

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