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私の夏と、夏の読書感想文

#夏の読書感想文  というハッシュタグを見て、反射的にモヤっとしてしまった。

なぜなら、コロナがなければ私は夏に読書をしていないはずだからだ。なんてったって、ここは沖縄。夏めいた気候はだいたい5月ごろから訪れて、毎年やれビーチパーティだの、離島巡りだの、ビアフェスだの、花火大会だの、仕事終わりのオリオンビールだのって、とにかく楽しいことが盛りだくさんな地なのだから。

この夏、ひたすら読書をすることにした。

だけれどこの夏、私はひたすらに読書をしている。速読術などは持ち合わせていないが、今月は10冊読了した。

と、恨み節のように読書を持ち出したけれど、キンキンに冷えたビールの代わりにアイスコーヒーを飲みつつ、本を読むひとときは割と最高だ。いつだって私はネガティブな感情が長続きしない。

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夏の読書感想文

コロナ禍で読書量が5倍くらいに増えた成果なのか、ここ最近選ぶ本を外さなくなってきた。Amazonで指一本で買った本が、どれもこれも面白いのだ。

現時点で5冊くらいの本を読み進めているし、積ん読は30冊くらいあるし、来月買おうとしている本は20冊くらいリストアップしている。自粛終わる気あんの?と自分に思う。

でもいつまで続くかわからない自粛で見つけた楽しみなのだから、いつまで続けるかを考えずに楽しみたい。家にこもってコロナのニュースばかり見ていたら気が滅入るけれど、そもそもネガティブな感情は、視野が狭くなった時ほど現れるものだ。本を読めば、家の中にいながらも視野を広げることができる。

たとえば私は最近もっぱら人類学にハマっていて、その手の本ばかり読んでいる。恐竜が絶滅した原因や、ホモ・サピエンスだけがこんなにも成長したのはなぜなのかとか、そもそも人類は生き物の中でもかなり弱くて、弱さゆえに陸に降りてきたのだとか、そんな話を知っていくうちに、最近はコロナに対する目線が少しだけ変わってきた。最近は地球と、ウイルスの目線で考えるようになってきた。

ウイルスもあの頃の人類同様に、進化を図っているのではないだろうか。そしてそうなった原因は、人間がウイルスの居場所を奪ったことにあるのではないだろうか。

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そもそも私たち人間は強くなりすぎている。地球上に生まれたり生えたりしている動植物すべてを支配できると思っているし、それらを守るのも死滅させるのも人間が決めることだと思い込んでいる。

だけど本来人間は、弱さゆえに知恵を使って生き延びてきたし、他の動植物にはありえないほど急速な進化を遂げてきた。となると、ウイルスも今、もしかしたらそうなのかもしれない。本当は森の中とか動物の体の中とかにひっそりと暮らしていたのに、私たちが森や生きものを奪っていくから、暮らす場所がなくなって人間のところにやってきたのかもしれない。

だとしたら、そこで「勝つべきは人間だ」とどうして言えるだろうか。ホモ・サピエンスがここまで成長したのは弱いからで、恐竜が絶滅したのは最強になりすぎたからだ。もしかすると私たちは今、絶滅直前の恐竜状態なのではないだろうか。そして変異を繰り返すウイルスは、変異を繰り返してきた人類と同じく、追いやられたがゆえに力を持とうとしているのかもしれない。

視野が広がる、ということは視点が増える、ということだと思う。結局ネガティブに考えてるじゃん、と思われるかもしれないけれど(実際そうだけど)、人間にとって1番苦しくて途方もないネガティブは、誰かを責めている時だと私は思っている。だから私はたとえ反省の機会になったとしても、視野が広がるような読書をしたい。

◎人類学系のおすすめ本


ちなみに先ほど「人間にとって1番苦しくて途方もないネガティブは、誰かを責めている時だと思う」と書いたけれど、一方で「声を上げる」ことはとても大事だと思っている。その重要性についても読書によって学んだので、ここでもう1冊紹介したい。

この本は、”文学者”として長年「言葉」に向き合ってきた著者が、世間には「黙らせるための言葉」が多い反面「本当の意味での励ましの言葉」が不足していることについて言及し、タイトルのとおり「まとまらない言葉」「言葉にならない言葉」をひとつひとつ見つけていこうとする一冊だ。

終始考えさせられる内容が詰まっている中、特にハッとした文章をひとつ引用する。

戦後の障害者運動は、ハンセン病患者たちが差別に立ち向かったことが原点(のひとつ)なんて言われている。仲間のために言葉を諦めなかった人たちだからこそ、世間の差別に対しても、黙らずにいられたんじゃないか、と思う。

これは「声を上げること」の大切さを訴えている。私はこの文章を読んで、ある一文を思い出した。

「私は差別をしない」では差別はなくならない。
「私は差別に反対する。闘う」でなければならない。

なんの本に書いてあったかは忘れたが、この言葉に出会ったときの衝撃が頭から離れず、メモとして残していたのだ。

つい最近、FODでいじめをテーマにしたドラマ「わたしたちの教科書」を観たこともあり、ずっと「差別」「いじめ」について考えていたのだけれど、この言葉たちがつながって、ある考えが私の中に浮かんだ。

いじめって、みんないじめられる人が弱いと思っているけれど、弱いのはいじめられている人じゃなくて、いじめられている人”以外全員”なのではないか。

そんなことを考えていたら、本にはいじめについても触れられていた。著者が「いじめられている子を励ます」というテーマで講演の参加者に作文を書いてもらった時の話だ。それについても引用したい。

多くの参加者は「いじめられる側」に同情し「いじめる側」を許せないと怒る。でも提出された作文を読むと、だいたい6割から7割近くの人は「いじめる側」の肩を持つ。正確に言うと、理屈としては「いじめる側」が言っていることに近い文章を書いてくる。
(中略)「いじめられる側」に同情する主旨で書き始められた文章が、後半に進むにつれて「こんな奴に負けないで頑張れ」という論調になっていくパターンが多い。これは裏返すと「自分を強く持て」ということなんだけど、受け取り方によっては「いじめられるのはあなたが弱いからいけない」というメッセージにもなる。
「弱いからいけない」ー実はこれ、課題小説の中で「いじめる側」が言っている理屈とほとんど同じなのだ。

「弱いからいけない」この考えのなにが危険かということも、別の章に書かれていた。

「圧力」を高めてはいけない。理由は「生きづらい人が可哀想だから」じゃない。「可哀想」というのは「自分はこうした問題とは無関係」と思っている人の発想だ。こうした圧力は「自分が死なないため」に高めてはいけないのだ。

ここに出てくる「生きづらい人」を「弱い人」に変えても全く同じことが言えるだろう。自分が弱い立場に立つシーンはいつか必ず訪れる。それは分かりやすくいじめられっ子がいじめっ子になるシーンだけじゃなくて、不慮の事故などで突然、自分の意志で身動きをとることが困難になってしまうことや、年老いてできることが限られてしまうことなども含めて。

そんなとき、弱ったときに一番自分を追い詰めるのはこれまで弱いものに向けてきた自分自身の目だ。だから「弱いのがいけない」という考えは「自分が死なないために高めてはいけない」のだと思った。

夏は潔く失うことにした

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気付けばぜんぜん夏にふさわしくない読書の話をしてしまったけれど、つまり私が言いたいのはそういうことである。そもそも失ってしまった「夏」を「限りなく夏に近いなにか」で補うのは無理なのだ。

昔から「ノンアルコールビール」や「大豆ミート」、「忘れられない元カレに限りなく似た男」などに満足した試しがない。どれも本物には勝てないのだから。

だから私は本を読む。失った夏を悲しまない方法は、夏にこだわらず、今自分が楽しめることに注力するに限るのだ。夏を潔く失いながらも、長い人生にとって大事なひとときは、別の価値となって私を満たしてくれるから。




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