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「共感した」と人は言うけど

最近、ここ5年くらい。議論をする、だとか、意見を言い合う、ということが、自分の中で”気軽にできるもの”ではなくなった感覚がある。

原因ははっきりしている。SNSだ。特にTwitter。文章が大好きな私にとってTwitterは、本やブログと違って「読むぞ!」という気合い(?)や時間確保の必要がない分、気軽に、だけどいつの間にか長時間注ぎ込んでしまうツールとなっていた。恐ろしくて数えたことはないが、おそらく1日に費やしている時間を計算したら2時間くらいにはなりそうだ。

で、そんな風に気付けば毎日、毎月、毎年。何十時間、何百時間と捧げているTwitterからは、毎日なにかしらが刷り込まれている。無意識が故に、その刷り込みは「感覚」として既に私の中に根を張っているものもあるだろう。

「意見」「議論」も、感覚的に影響を受けているな、と思うもののひとつだ。たとえば最近こんな投稿を見た。

これを見て私は、ぜひ素敵な絵本が見つかって欲しいなと思い、リツートした。皆きっとそういう思いなんだろうなとぼんやりと思ったので、引用ツイートを見てみると、意外なツイートを見つけてしまった。

この投稿のせいで息子が怪我をしました。警察沙汰にします。

という内容だ。

私は「え、言いがかりにも程があるな....」とドン引きしてしまったのだけれど、だけどTwitter界隈にはこんな当たり屋みたいな攻撃や、それに伴う争いが多発している。Twitterは短い文章をサクサクと楽しめる反面、”世界にはさまざまな人間がいる”ことの怖さを目の当たりにする場所でもあるのだ。

そんなとき、今年創刊の雑誌『tattva(タットヴァ)vol.1』に掲載されていた、精神科医・名越康文さんのコラムの一文を思い出した。

「わかるわかる」は投影で、「なるほど、そういう考え方もあるのか」が共感。

SNSの論争のほとんどが、こういうことなのかもしれない。私たちが普段SNSで「共感しました」と口にしているほとんどが投影で、だからこそ「自分ならこうする」→「こうするべき」「こう考えるべき」と攻撃的なものになってしまうのかも。

先ほどの警察沙汰発言の人も、もしかしたら自分自身に深く「投影」し、それによって何か嫌な記憶を思い出してしまい、思い出したことがきっかけで怪我をしたのかもしれない。

だけどそれは「他人の投稿を見て勝手に投影した故に自らが引き起こしてしまった事故」なのであって、投稿をした人のせいではない。運転中に通りかかった猫が気になって事故を起こしても、猫のせいではないのだから。

意見交換ができる友

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そういえば私には、毎日のようにワクチンやコロナ、オリンピックについてLINEしあう女友達がいる。

彼女と私の性格は正反対で、毎度ことごとく意見がいつも割れるにも関わらず、なぜかお互いの意見を伝えたいし聞きたいと思う珍しい友人だ。

意見が違っていても、すんなり「こういう考えもあるのか」と思うことができるのは、ひとえにお互いがお互いのことを好きで、正反対の部分を尊敬し、尊重しあっているからに他ならない。だけどそれは、彼女と私が長い年月をかけて培ってきた信頼関係のたまものだ。

だとすると、名越さんのいう「共感」は人々が気軽に口にするほど簡単にできるものではないのかもしれない。タイムラインに流れてきた見知らぬ人の投稿についてすんなり「共感」できるほど、人間は素直にできていないのかも。

そんなことを思ったので、最近はTwitterを見る頻度を減らすことにした。

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