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理想の50歳と光浦靖子さん

私は光浦靖子さんが好きだ。

理由は、母に似ているから。顔も髪型も、眼鏡の形も輪郭も、結構いろいろ似ているのだ。強いていえば、ガテン系の仕事に従事してきた母は、光浦さんよりも少しだけおじさんっぽい。

そんな他人とは思えない光浦靖子さんの書いた本を知ったのは、雑誌ダ・ヴィンチ先月号でのこと。

この号の「女と家族」特集(この特集、ダ・ヴィンチ史上いちばん好き!)に、光浦靖子さんインタビュー記事があり、その中で著書「50歳になりまして」の一部冒頭文が紹介されていた。

それが、なんというかちょっと、いやかなり、ドキッとした。文章を引用する。

私は独身です。旦那も、子供も、彼氏もいません。わかりやすく私を必要としてくれる人が側にいません。年齢に比例して増えてゆく休み、そりゃ不安になりますよ。長い夜、思っちゃいますよ。「私は誰にも必要とされていない」と。ネットには「面白くない」「消えろ」「消えた」無責任な言葉が溢れています。私は、顔も名前も出さない奴らの憂さ晴らしのためだけに生きているんだ...。28年やってても頑張り方すらわからない世界です。でも私は、この世界の物差ししか持っていなくて、仕事がない=価値がない、としか思えなくなってしまいました。自分に満足するもしないも、他人からの評価でしか決められない。このままいくと、私はいつか、壊れるな。どうにかしなきゃ。
子供の頃から、みんなができることができませんでした。小学生の頃、リーダー格の女子に「やっちゃんはどう思う?」と聞かれ、答えるたびにグループで無視をされました。なんでみんなは答えがわかるんだろう。大学生の頃、バイトをクビになってばかりでした。ミスしてクビになったのは仕方ないが、ミスしなくてもクビになる。なんでみんな続けられるんだろう。結婚もそう、出産もそう、ほとんどの同級生ができたのに、何で私にはできないんだろう。いつも人の目を気にしています。みんなができることができなくて、できないことがバレるのが恥ずかしいから、「元々、人と同じは嫌いなの」風を装っていました。自由奔放に生きるなんて私から最も遠いことです。もうすぐ50歳、もう考え方を変えられるほど柔軟じゃない。だったら、ひん曲がったなりにナチュラルに生きてみよう。

光浦さんを母に投影しているのだろう。まず母を思った。母は、孤独になっていないだろうか。年齢を重ねた今、やりたいことや楽しいことはあるだろうか。

そして自分の未来を思った。私は50歳になる頃、どんな風に自分を振り返るだろうか。

そんなしんみりとした思い以上に、光浦さんの文章に、すっかり感動してしまった。なんて正直な文章を書く人なんだろうか。

正直に自分のことを文章にするというのは、実はすごく難しいことだと私は思う。だって「正直に文章を書く」って、毎日自分に正直じゃないとできないから。毎日正直に生きることはそうじゃない生き方に比べてうんと疲れることだし、正直な自分の感情って、書けば書くほどわからなくなったりするものだ。

というかそもそも、年齢と女性性に向き合う文章は難しい。虚勢を張ると見破られるし、いわゆる「自分語り」になるとかまってちゃんだと揶揄される。気をつけないと心のモヤモヤや「わかってほしい」を吐き出して成仏させるだけの文章になってしまったりもする。(私自身、過去のブログを掘り起こせば恥ずかしい自分語りが山のように出てくる)

だから光浦さんは、この文章をすごく傷つきながら書いたんじゃないかと思った。とにかく無性に光浦さんの文章に興味を持ち、すぐに本を購入した。

家に届いた日、ちょっと読むつもりが面白くて1日で一気読み。ささやかな幸せを掴むホッコリ感と、嫌なことをささやかに書き終わらせるやさしさに、気づけばニコニコしながら読了していた。

やはり私が感じた「正直さ」は1冊まるまる崩されることはなく、改めて光浦靖子さんという人が大好きになった。

お笑い芸人という職業技なのかもしれない。自虐と本音、「どうせ」感とその引き際が絶妙なのだ。正直でありながら、テクニカル。

「50歳」という「取り返しがつかないかもしれない年齢」に向き合う中で、これは結構苦しいんじゃないかと思うシーンがあったりするのだけれど、そこに読者を引きずることは絶対にしない。コミカルに書きつつ気持ちには正直に、ちょっとウジウジしつつ、嫌な話は「ケッ」くらいに留めてあっさり終わらせる。

荒手の駆け引きのようなツンデレ感も面白くて、普段からいろいろと考えちゃうんだなぁと。そして、そこからの考えの放り出し方は見習いたい。これとか、もう笑っちゃったよね。

人は人をカテゴライズしたがります。分類して引き出しに押し込めて、そこからはみ出ることを嫌います。「いやいや。そういうキャラじゃないでしょ」と、とても引いた顔で言えば、人を動けなくさせることができます。言われた方は、なりたい自分からどんどん遠ざかって、他人のなってほしい自分に収まることしかできなくなります。意地悪。自分が怖いからって、人を型にはめ込むなんて。若人よ。そんな奴らにウンコをぶつけましょう。

人との距離のとり方とか、他人への警戒心の強さのようなものも愛おしい。

もうひとつ、観察眼が鋭くて好きだった一文。

女の人はお喋りです。でも男の人のように、深く深く掘り下げてゆきたいわけじゃないんです。横に横にスライドしてゆくトークが得意です。(中略)胸のところに留めておいたら、嫌な形に化けてしまいそうなモノを早く吐き出したいんです。笑い飛ばしたい、一緒に笑い飛ばして欲しいんです。笑い声が成仏させてくれます。

「胸のところに留めておいたら、嫌な形に化けてしまいそうなモノ」という言葉のチョイス、天才だと思った。これは多くの女性に刺さったのではないだろうか。

そして私は最近『まとまらない言葉を生きる』を読んでからというもの、この世にまだ存在していない”やさしい言葉”を常に探しているのだけど、光浦さんは、まだ発見されていない”やさしい言葉”をたくさん持っている人だと思った。たとえばこちら。

リスは冬に備えて集めたドングリを埋めて隠すんですが、埋めた場所を忘れちゃうんですってね。可愛いー。だから貯金をいっぱいしたまま死んでしまったおばあさんを「墓場にまで金は持っていけないのにね」とか「がめつい」とか親族は言わないで「リスみたいで可愛い」と言ってあげればいいのに、と思います。


文章を読めば読むほどに、とても人の感情に敏感に、今日までやってこられたんじゃないかなと思う。だからこんなにも細やかに、読む人への配慮がされているのではないか。読み終わった後はもうとにかく、恐れ入りました。という気持ちになった。

私はいつも楽しそうにニコニコしているおばあちゃんになるのが理想なのだけど、そこにプラスして、ダメなところも、やさぐれる時も、光浦さんのようにコミカルに出せちゃう人になりたいなぁ、という項目もひっそり追加することにした。

それにしても、こんなにも素敵な人だったか、光浦靖子。なんだか私はうれしくなって、母に本を送ることにしたのでした。



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