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「わたし」を表現し、見せていくという生き方

みなさん、お久しぶりです。こんばんは。今回は自己紹介を兼ねて、わたしという人についてお話したいと思います。良ければ読んでいってください。

わたしの人生には、いろんなことがあり、わたしにはいろんな側面があります。虐待やいじめ、自殺未遂に脳腫瘍、不登校、引きこもり、セクシャルマイノリティ、うつ病、障害者、元セックスワーカーなど、羅列するだけでもたくさん出てきます。これらのことに加えて、わたしがなぜそれを今から書いていくのかをお伝えできればと思っています。


わたしの生い立ち ー高校生までー

わたしは、ほとんど家に帰らない父と神経質な母との間に生まれました。母は家事と仕事をし、ほとんど一人でわたしの面倒を見ていました。翌年に妹が誕生。父は相変わらず家にはいない人でした。父は人生を新興宗教に捧げており、この人にとって宗教とは人生とイコールのような状態です。その活動のために家にはあまり帰りませんでした。

わたしは保育園の頃から、「なぜ、自分はこっちのトイレで、あの子はあっちのトイレに入るのか(男女でトイレがわかれていることへの疑問)」「なぜ、わたしはピンクの服を着させられるのか(女の子だからピンクを着なければならないことへの疑問)」を抱いていました。それに、他の人たちと集団で行動することが難しく、一人で遊んでいることが多かったです。

それと並行して、我が家では溜まりに溜まった行き場のないストレスが暴力というかたちで表れ始めました。何が理由かわからないことで怒られ、殴られ、蹴られという虐待が始まったのです。その時期も父は家におらず、家事と育児と仕事で大変なことになってしまった母は、癇癪を起すようにキレるようになりました。父も怒ると殴る人でした。

一方で母は、わたしのアトピー性皮膚炎を治すために何件も病院を回ったり、寝るまでわたしの背中をトントンと叩いてくれるなど、必死に育児をしていました。

とは言え、急に怒られる母とリラックスして生活できることはありませんでした。そのまま小学生になり、今度はいじめが始まります。学校でのいじめです。無視される、「気持ち悪い」「死ね」と言われる、蹴られるなどの暴力を受けて、わたしは小学三年生にして慢性的な自殺念慮を持つようになってしまいました。

その頃になってやっと虐待はなくなっていったものの、学校でのいじめは、六年間ずっと続きました。何枚もの遺書を書いて学習机のひきだしにため込み、首つりをドアノブでしてみたり、辛くて号泣したり、空っぽになって何時間も天井を見つめていたり。身体的にも過敏性腸症候群のような症状もあって、とても辛い日々でした。

中学生になり、他の小学校の人たちと合併するようなかたちで、クラスが倍に増え、いじめはマシになったもののなくなりはしませんでした。リストカットを覚えたわたしは、ストレスのほとんどを自傷することで何とかするというバランスで、ギリギリやり過ごしていく方向になっていきます。教室や廊下でリストカットし、寝る前にも切らないと眠れなくなってしまいました。

登校もしんどくて仕方なく、身体もしんどくて授業を聞く余裕はありませんでした。そして、中学二年生の夏、わたしは自宅の二階から飛び降りたのです。全治半年の重症。即入院。

一か月は入院し、半年は自宅療養。そこからわたしは別室登校することに。しかし、登校するのは週の半分くらいで、それも10時から14時くらいまででした。誰にも会わないようにひっそり登校し、ひっそり下校していたのです。生活に支障はないものの、坐骨神経痛と肋間神経痛持ちになりました。飛び降りてから「死ぬことは簡単ではない」と感じ、なぜか自殺念慮は薄くなりました。

その翌年、今度は脳腫瘍で倒れて手術。幸いにも良性の腫瘍だったため、手術後は元気に。しかし、中学三年生の冬は気づいたら終わっていました。

わたしの生い立ち ー今までー

高校は体力的なことも考えて、夜間の定時制に入りました。高校での体験はわたしにとって驚くようなものばかりで「教室にいても誰にも何も言われない」「『おはよう』と挨拶ができる」「肩の力がものすごい抜けて体が楽になる」など、心の中で「すごい!」と思っていました。

そうして生活していく中で、なんと友達もでき、先輩に誘われて生徒会に入ることに。わたしにとって、生徒会はとても心地の良い場所でした。そこから少しずつ自分のことを考えられるようになっていきます。

そこで気づいたのは、わたしには言動の不一致(言動の乖離)があるということでした。自分が何を話しているのかさえ、把握できないくらいに自己の統一性がなかったのです。友人たちと話しているうちに、自分を客観的にみることを覚えていき、自分自身のことを掘り下げていく作業に入っていきました。そうしているうちに自分が虐待されていたことを「思い出した」り、自分の思っていることを言語化できるようになっていきます。高校生の間に獲得できていなかったものを獲得し直していったように今では感じています。

わたしは生徒会長やいじめのシンポジウムに参加するなど、精力的に活動しました。高校での体験はわたしにとって、とても重要な体験だったと思います。

大学に進学したわたしは再び壁にぶつかります。大学になじめない。その頃には「性自認がない」という感覚があり、格好もいわゆるボーイッシュな服装でした。パンセクシャルであることも自覚していました。それだけではないと思いますが、何か周りから自分が浮いているような気がして、とても居心地が悪かったです。3回生になるころに、わたしは退学しました。

それからは、続けていたアルバイトをしつつ、ホテヘルやデリヘルなどの風俗を始めました。同時期に一人暮らしも開始。実家を出て、家族から距離を置けたことで精神的には安定していました。

しかし、恋愛面では悩むことが多かったです。なぜなら、みんなDVをする人だったから。そのことに気づいたのは最近ですが。殴られたり、暴言を吐かれたり、優しくされたり。精神的にぐちゃぐちゃになることもありました。それは、なんと結婚しても続きます。

風俗のお客様だった人と20代後半で結婚し、主ふになったり、バイトを変えたり、いろいろしました。しかし、相手との暮らしはしんどく、好きだから結婚したのに「離れたい」と思うようになります。結婚生活は2年弱で終わりを迎えました。

そして今、わたしは新しいパートナーとの生活を始めています。初めてのDVをされない関係です。戸惑うことも多いですが、少しずつ自分も変わっていると実感しています。ポリアモリーであることも公表していくようにし、より自分らしい生き方を選択できているのかなと思っています。

これまでの体験から思うこと

ここまで何とか簡潔にして、わたしの人生を書いてきました。自分で書いていてもいろいろあったなと思います。これがわたしの今までの人生です。あまり体験することのないようなことを、いくつも体験してきました。

現在のわたしはうつ病で障害者、複数の人を同時に好きになるタイプでパンセクシャル、クィアで関西クィア映画祭を細々と応援している。(第15回 関西クィア映画祭 2022 実行委員になりました/しばらくして実行委員を辞めました)そんな人です。こう書いてもわかるように、わたしにはマイノリティ(少数派)な部分がいくつもあります(もちろん、マジョリティな部分も多いです)。

そのため、自己紹介や自分の話をすると驚かれたり、「どういう意味?」「それなに?」と言われることがあります。そして、続いて言われるのは「そういう人もいるんだね」ということです。その反応は、わたしにとっては驚くことでした。人生は山あり谷ありで大変なものである、とばかり思っていたからです。そうではない人もいるということに驚いていました。

そんな体験から「知らないものはその人の中には存在すらしない」ということに気づきます。それは、例えば「セクシャルマイノリティという言葉や存在を知らない人にとっては、セクマイはいないものとして意識すらされない」というようなことです。知らないということはその存在を認識できないということなのです。

人生は人の数だけ違うということをわたしは知りませんでした。他人と自分は違うということを認識できていなかったとも言えると思います。このように知らないということは、視野を狭めてしまうことです。それは恐ろしいことだと今は思っています。

知らないという恐ろしさ

「世の中には自分とは違ういろんな人がいる」ということを認識できないのは恐ろしいことだと書きました。そこについてもう少し掘り下げたいと思います。

他者と自分が違うということを知らなかったわたしは、自分の持っているマイノリティの部分しか見ることができませんでした。セクマイであり、精神疾患を持つ人であり、いじめや虐待サバイバーであること。そういったことについては見えているのに、他のマイノリティのことは見えていなかったのです。

在日朝鮮人と呼ばれる人たちや、日本語が喋れなかったり読めない人たち、聞こえなかったり聞こえづらい人たち、手話を使う人たち、見えなかったり見えにくい人たち、など。クィアも10年前までは、わたしの中になかったものです。今でもあるとは思いますが、知らないということはマイノリティを無視するということなのです。それは、その人たちが感じている抑圧や差別に加担しているということなのではないでしょうか。

わたしはいじめられていたと書きましたが、わたしに直接、何かをした人よりも、それを見て見ぬふりをした人のほうが多数でした。しかし、わたしはそういった人も含めて「いじめている」と感じていたのです。それは、さきほど書いたように「わたしへのいじめに加担している」ということだと思います。その体験から、黙っていることや見ないことは暴力や差別に加担しているということだと考えます。

知らず知らずのうちに差別に加担している。こんな恐ろしいことが日常的にあり、しかも、自分自身も気づかないうちに加害者になっているという事実がある。それは、とても恐ろしいことです。何もしていないからこそ、誰かを傷つけることに加担し、その痛みを強化している可能性があるのですから。

わたしにできることは何か

加害者でもあり、被害者でもある。マイノリティでもあり、マジョリティでもある。そんなわたしに何かできることはあるのかと考えたときに、やってみようと思ったのが「わたし自身を開示すること」でした。それはどういうことかと言うと、「マイノリティな部分をさらけ出すことで、知らない人たちに知ってもらう活動をする」ということです。「こんな人もいるよ」と見せることで、自分とは全く違う人がいるんだということに気づいてもらう活動です。

具体的には、仲良くなった人に自分のことを話してみるとか、初対面の人に恋愛の話をされたときに「わたし、性別関係なく人を好きになるし、複数の人を同時に好きになるタイプなんですよね」と言ってみたりとか。些細なことの積み重ねです。しかし、実際に目の前にマイノリティがいるというだけでも、その人に大きく影響できると思います。自分の周りから変えていこう、そう思って意図的に開示していっています。

こうやってnoteを書くのも、そのひとつです。わたしのことを知ってもらうことで、「こういう人もいるのか」と思ってもらいたいのです。

もちろん、自分のことを開示するだけでなく、自分がまだ認識できていないであろう何かを探すこともしていかなければならないと思っています。もっと見なければならないことが世の中にはたくさんあって、少しずつでも見ていこうと努力したいです。(嫉妬のインタビューなどをしているとそういったことが見えてきたりします)

わたしの生き方

わたしはわたしを開示し、見せていくことでマイノリティを知ってほしい。その活動こそが、わたしの生き方だと思っています。たくさんの経験をたまたましてきたので、そこから伝えられることはたくさんあります。

今でもそういった日常的な活動を通して、周りの人に知ってもらう活動を続けています。SNSやnoteなどでも発信して、これからも「こんな人もいるんだ」と思ってもらいたいです。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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