もしかして「私の親は毒親?」と感じたら「毒親」をタイプ別に考察。
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はじめに
前回の記事でも触れたように、「毒親」とは子どもの人生を支配し子どもに害悪を及ぼす親のことです。
毒親は虐待親とイコールで結ばれがちですが、私は「良いしつけをする親」と「虐待親」の間のグレーゾーンに「毒親」を置いて考えています。あえて言えば「毒親≒虐待親」という感じでしょうか。
専門家の方々は「子どもが耐え難い苦痛を感じることであれば、それは虐待であると考えるべきだ」と言っています。
だけど「毒親育ち」の人は子ども時代に「子どもであるが故に耐え難さをちゃんと認識できなかった人たち」です。
虐待という意識は無く、毒親が作る養育環境が当然のものであり、いつの間にか蝕まれてしまったのです。そんな彼らが大人になると、「自己肯定感」がかなり低く世の中が「生きツライ」し、普通の人とは比べ物にならないほどに大きな傷を抱えているけれど、それでも傍から見れば「人並みに幸せそうだ」と思われる状態に身を置いていたりします。
昨今は毒親ブームなので、それに乗っかって「毒親育ち」を公言しやすくなりました。「虐待によって命を失った子ども」や「自分よりも苦しんでいたのだろう命を絶った人」に比べれば悲惨な人生ではない。
だから「虐待」というレッテルを貼られて自分が惨めになるのは嫌だ。でも「私はツライんだ、ツラかったんだ」と言いたい。「毒親育ち」を公言する心理はこんな感じだと思います。
中には「毒親育ち」とはとても言えないような人が「甘え」の言い訳に使うために公言するような「なんちゃって毒親育ちさん」もいるでしょう。
「毒親育ち」からすれば彼らの「甘え」のせいで世間の風当たりが強くなることに迷惑を感じてしまいますが、彼らを「甘えたい気持ちがコントロールできないくらいには毒されている」と考えることはできるかもしれませんね。
日本では虐待を見つけたら通報する義務(全国共通ダイヤル189(イチハヤク))がありますが、親のしつけに関して他人が口出しをしない暗黙のルールが根強くあり、親の虐待で大切な子どもの命が失われて初めて「あれは虐待だった」と認める社会風土です。
これは「過労死」や「鬱病の末の自殺」で心身のダメージの深刻さがやっと認めてもらえるのと同じですね。このような社会風土だと親は「毒親」になりやすく毒性が強化されやすいです。
「世の中が生きツライ自分」を救ってやるには、そしてまた「負の世代連鎖を断つ」には、「毒親育ち」もそうでない人も、一人ひとりがこの現象の全てを認識し、「自覚的」に言動できるようになるしかないと思います。
さて長くなりましたが、『毒になる親 一生苦しむ子供(スーザン・フォワード)』の分類に沿って、本の内容をまとめるというよりは項目名だけお借りして、これまで長い時間をかけて私なりに考察してきた「毒親」の性質について書いてみますね。
神様のような親
親である自分は絶対的な存在であり、子どもは常に親の言う通りにしなければならないと考えています。でも当たり前ですが親だって不完全で、間違いや失敗をしますよね。
そして3歳くらいまでの子どもにとって、親との生活が世の中のほぼ全てですよね。そんな環境の中で、子どもは成長するにつれて自己主張するようになります。やがて思春期を迎えると反抗期に突入します。
健全なココロを持ち合わせた親ならば、これを子どもの成長の証として捉えて、表面的には腹立ちつつも内心では喜ぶでしょう。
しかし不健全なココロの親は喜ぶどころか、苛立ち、時には暴力・人格否定をすることさえあります。子どもの「非力さ」につけこんで親に依存させ、自立する機会を奪ってしまうのです。
私の毒親には「時代の名残」がありました。父は絶対的な家長、とか、しつけで叩くのが当然、とかです。田舎なので仕方のない感じはします。
義務を果たさない親
子どもにとっての衣食住は親(保護者)から与えられるべきものであり、それがきちんと与えられない場合は死に直結する可能性があります。
また、外の世界への理解が不十分な子どものカラダやココロを危険から守らなくてはいけません。そういった義務を果たすことで子どもは満たされた生活をできるのです。
しかし不健全なココロの親は情緒不安定で、義務を果たせないどころか逆に子どもに依存して自分を満たしてもらおうとします。これでは家庭における親子の役割が逆転しています。
子どもが親の役割を演じなくてはならず、「子どもらしく生きる権利」を奪われ、感情を自由に表現できない苦しみや寂しさを味わうことになります。
私の毒親は幸いにも衣食住は与えてくれました。しかし私が保育園への登園を恐がっているとき、毒母は情緒不安定のため私のココロを支えてくれず、「ダメな子」と叱るだけでした。
それは私を奮い立たせるためだけではなく、毒母のココロに生じた不安を解消するためであり、どちらかと言えば後者の性質が強かったと考えています。
コントロールばかりする親
私の毒母はまさにコレですね。毒親の象徴とも言えるでしょう。
とても自己中心的な性格をしていて、かなりの過干渉です。親と子どもが「血の繋がった他人」だという認識がありません。
外の世界からの「子どもへの評価」を「親への評価」と同一視しているため、子どもに完璧を求め、何を成し遂げたかによって子どもが「良い子」か「悪い(ダメな)子」かを決めるます。無条件に子どもを愛するのではなく、「外の世界から評価される」という条件付きで愛するのです。
子どもが自発的にやりたいと思うことでも、親の望むことと一致しなければ毒を吐きます。子どもが親の望むことをしてくれた時だけ、ココロから喜んでくれるのです。
子どもは親の望むことを達成できたときだけしか「自己肯定感」を育めません。しかも始末の悪いことに、親の望むことを頑張って成し遂げようとしても、過干渉のせいで失敗してしまうのです。
いえ、そもそも完璧を求めるので成功することは有り得ませんね。これでは「自己肯定感」を育みようがありません。
「コントロールばかりする親」は、自身の人生に対する「不満」と、子どもに見捨てられることへの「不安」があります。また、他人と自分を比較した際に、「自己肯定感」の低さから、自分のほうが優れていないと強い「不安」も抱きます。
よって相手の欠点を並べることで自分の「有能さ」を感じようとします。そしてそれは子どもとの関係においても見られます。子どもの成長を素直に喜ばず、嫌味を言ったり否定したり、「言う通りにしないと◯◯するよ」と脅したり、暴力で押さえつけたりと、子どもに「無力感」を与えることで、非力な子どもを弱い立場のままにしておこうとするのです。
「コントロールばかりする親」の深刻な問題点は、子どもを支配しようとしていることに無自覚であるところです。
「あなたのためを思って言っているんだから」という言葉を巧みに使って、子どもに言うことをきかせようとします。その際、「自己肯定感」が低くココロが不安定なため、子どもが言うことを聞かなければ、極めて感情的になります。感情の起伏は激しく、言うことがコロコロと変わります。
このような「間違ったしつけ」の日々の積み重ねが子どもを混乱させます。親や外の世界と調和する処世術を学ぶ機会を得られず、常に親や他人の顔色を伺いビクビクして過ごすようになります。そして避けようもなく「自己肯定感」の低い大人として「生きツラさ」を抱えて生きることになります。
「コントロールばかりする親」は毒親と「負の世代連鎖」の構造を理解する上で重要なタイプだと思います。
アルコール中毒の親
今はアダルトチルドレン(AC)の意味が広がり、不健全な家庭環境に育った子どもの多くはACだと認識されていますが、元々は「アルコール中毒(アルコール依存症)の親(以下、アル中)」とセットの概念でした。
このタイプの親のもとでは、過度に「良い子」でいることを余儀なくされます。さもないと、激しい暴力に晒されてしまいます。
また、アル中の配偶者は恐怖と面倒臭さから子どもを守らず容認してしまいます。子どもは「アル中の親」からの直接的な苦しみに加え、「もう一人の親」から守ってもらえないという間接的な苦しみも味わいます。子どもにとって両親は共犯者なのです。
その結果、子どもは自己肯定感が低く、他人からの視線に敏感で、世の中への「生きツラさ」を感じるようになり、PTSD (心的外傷ストレス性障害)、パーソナリティー障害、鬱病など、何らかの病的な苦しみを抱えるようになります。
私の毒父は「もう一人の親」ですね。父は「(母に)なんか言ったらすぐ怒るから言わん」と繰り返し言っていました。
父が毒妻に毒された状態ですね。毒母の「間違ったしつけ」から守ってくれることは少なく容認していました。「子育ては女がするもの」という時代の名残が容認を助長したのでしょう。
それに加えて「神様のような親」という時代の名残もあり、言うことを聞かない私を毒母と一緒になって玄関の外へ引きずり出すという「間違ったしつけ」をしていました。毒父の所業は、毒母に毒されたことと、時代の名残によって行われていたのです。
残酷な言葉で傷つける親
どんな親でも子どもを叱る時に、強い言葉や傷つく言葉をつい使って「言い過ぎてしまった」ことがあるでしょうが、これだけで虐待にはなりません。
健全なココロを持つ親ならば、「言い過ぎてしまった」ことを言った場合、その失敗や過ちを認め、子どもに謝ります。
しかし「残酷な言葉で傷つける親」は謝ることなく、「あなたのために言っている」や「世の中はそんなに甘くない」などと言って、自分のやってる「しつけ」を正当化します。
こうなると虐待になります。「しつけ」と称して「残酷な言葉」で理不尽に怒られている子どもは、次第に自分が「悪い(ダメな)子」と刷り込まれていきます。
「自己肯定感」を育てなければならない大切な時期にココロを傷つけられた子どもは、大人になっても苦しみを抱えて生きていくことになるのは言うまでもありません。
私は毒母から「さっきは少し怒りすぎた」などのニュアンスでさえ謝られた記憶はありません。
また好きなことをしていると「そんなことをしても何にもならん」と言われたり、親の言うことを聞かないと「もうあんたなんか知らん」と見捨てようとする発言や、「なんであんたはそんなんなん!」や「あんたはきちがいか!」という人格否定の言葉を繰り返しました。
残酷な言葉や暴力で泣き続ける私を抑え込み、それに失敗した時は私を無視・放置して、「私が泣いていなかったことにされている」という日常でした。
暴力を振るう親
日本では虐待を見つけたら通報する義務がありますが、親のしつけに関して他人が口出しをしない暗黙のルールが根強くあります。
そして「子どもに何をしても、少なくとも殺さない限りは大丈夫」という誤った価値観のもと、「しつけ」と称した虐待で大切な命が失われて、初めて「あれは虐待だった」と認める社会です。
子どもに「暴力を振るう親」は、社会的地位、貧富の差、教育の程度などと無関係に存在します。
その時々の精神状態によって「泣きやまない、訳の分からないことを言って困らす、親の言ったことに反抗する」といった子どもの行動を暴力で抑え込もうとします。
そのとき「子どものためにしている」と暴力を正当化します。暴力され続けた子どもが成長すると、自己肯定感の低い大人になってしまいます。
カラダもココロも暴力で抑え込むことが正しいことだと刷り込まれるため、無自覚に暴力を振るうことで自分を守りながら、歪んだ人間関係を構築していく大人になる可能性があります。
私の毒親は、泣き止まない私を残酷な言葉や暴力で押さえ込もうとしていました。親と蹴りあったことや、玄関の外へ引きずり出されて鍵を閉められた記憶は今も鮮明です。
性的な行為をする親
これはなかったですね。
言うまでもなく、子どもに害悪を及ぼすでしょう。しかし当事者の方には申し訳ないけれど、この話題は私の気分が悪すぎるので言語化を控えさせていただきます。
ここまで「毒親」のタイプ別の考察にお付き合いくださりありがとうございました。
おわりに
さて「私は毒親育ちだ」と思ってこのページへ来られた皆さん、いかがでしたでしょうか?
「毒親」をタイプ別に考えてみましたが、やはり複合的に絡んでいて完全に分けて考えることは難しいですよね。毒親にはいろんなタイプがありますが、どのタイプにも言えることは、親自身に問題があって、その毒が子どものココロを壊し、自己肯定感の低い人間にしてしまう、という結果は同じです。
「現在の苦しんでいる自分のことを見つめ直して認める」という途方に暮れる自覚化作業のお役にちょっとでも立てば幸いです。
どうか皆さまがココロ穏やかに、
今よりももっと「楽に」生きていけますように。
ありがとうございます(๑•ᴗ•๑)♡これからも更新できるように頑張ります!