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【隠れ毒親】「一生懸命、頑張る姿」にフォーカスが当たったことの罪

年明けに書いたnote↓

その記事に付随して細かく書いてみようと思い、
「隠れ毒親」をシリーズ化。
しかも、「音楽する人の為の母娘についてのこと」でくくって。
なんで、こんなことを書くのか。
晒して恥ずかしくないのか。
そう思われる方もいらっしゃるかもしれない。
誰の役に立つかはわかりませんが、
私の書く理由としては、
・同じ経験をしてる人の代弁になればいいな
・同じ事で苦しむ人が減ればいいな
・自分がこういう事を次世代に繰り返さないために
この3点です。

親子関係で苦しむあなたへ(有料note)」も
併せてご覧いただけたら幸いです。

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自分のブログにこんな記事を書きました。

その中にこんなことも書いたのですが、

では、上記のような「やみくもな練習」で、私は何を得ていたんだろう?
「一生懸命、練習してる!」感とか
「練習してる自分」に酔ってる感とか
「やってる感」が満たされてる感などなど
(「感」「感」うるさいw)

なにゆえ、身体を壊してまで
一生懸命、闇雲に練習いていたんだろう。

私が学生の頃は、
まだまだ「精神論」「根性論」が全盛期。
「サムレスト(親指に楽器が引っかかるところ)にあるタコは
 練習した証であり勲章」
「目をつむっても指だけでも動くよう、体に音符を覚えこませるんだ」
「できても慢心するな」  などなど。

褒められても喜んでしまうと慢心してしまうのではないか。
完璧を目指さないとすべて緩慢になってしまうのではないか。

そういう恐怖心を、常に煽られてたように思う。

でもある時、気付いたのは
「褒められたら素直に喜ばないと努力したものすら、
 積み重ならなくなってしまうのでは?」ということ。

自分のできたことは、素直に認めよう。
そうすることで、
育つのが自信だったり、
自尊心だったり、
自己肯定感だったり。

でも、なんで、練習の中身ではなく
「一生懸命」であることに主眼を置くような心理になっていたのか。

それは、
物心つくか、つかないかくらいの幼少期に
「一生懸命、頑張ってる」ことが
分かりやすく表面に現れたところを
褒められたからなのではないか、と。

「褒められたことを素直に喜ぶ」と
「表面的な【一生懸命】を褒めらたのが原因」

矛盾してるかもしれないけど、
全く別次元の問題である。

表面に【一生懸命】が現れたところを褒められて以降、
その練習の中身じゃなく、
一生懸命、頑張る自分を演じたり、
一生懸命、頑張ることに主眼を置いてしまってたんだなぁ、と。

一生懸命な姿が親を喜ばすんだと思って
それを修正できずに大人になってしまった、という訳です。。。

そういえば、ずっと練習を聞かれてました。
練習の評価もずっとされてました。。。
「ずいぶん、指が転ぶわね」とか
「ミスが多いわね」などなども。

で、褒められるのは、表面上の頑張り、、
中身に対しての評価ではなかった。
「一生懸命頑張る姿」にフォーカスが当たりまくってしまってた。

でも、そこに気付いたのだから、
また別の一歩を踏み出せる、と信じてます。


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