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多様性を認めていくことの覚悟

DE&Iなるもの

ダイバーシティ、エクイティ&インクルージョンという言葉もいよいよ市民権を得たような感覚のしている昨今ですが、このダイバーシティ(=多様性)って本来的には元々存在していてそれをどうやって社会や企業などの仕組みの中に受け入れられるように実装していけるかがとても大事なのだと考えています。

このことに意識を向けられるかというのはそれまでの経験などが大きく左右するものであるなと感じる部分があり、自分自身もそのことについて折に触れてこのnoteでも投稿させていただいております。

ほとんどの文脈はジェンダーギャップに関することになりますが。

同時に働き方に関する柔軟性の必要性と、働く場所についても以下に。

自分なり企業の経営に関することに意見を反映できる立場としてかなり課題感や危機意識を持ちながらあらゆる情報に触れていきたいという想いを強く持っています。

また、特に私の場合かなり幸運だったのは前職が外国籍の方も多く在籍されている企業であったため企業としての取り組みそのものがまさにこの多様性に関する事であり、その試行錯誤も目の当たりする機会が多かったからかもしれない。

葛藤

でも、この多様性の取り組みの中でいつも感じる葛藤があった。それは、どうしても構図として多様性のために何かを受け入れる際に、その分のしわ寄せを受け入れるような緩衝材的構図を生んでしまうことである。

そんなことが起きない解決方法があって、自分が単純に知らないだけかもしれない。そうであればそれを知りたいのだが、今のところの自分の認識としては短期的にその局面を切り取ると、優遇されている何かと、その煽りを受ける何かというものが存在してしまっていたように思う。

例えば何らかの理由で業務を切り上げないといけない、ただし納期としてその業務はその日中に終わらせないといけない。

だからそれは「代わりの誰か」が必ずやらなければならないという状態。

成果を出すことが仕事である以上、そんなことは当然であり、だから組織なんだという考えはもちろんあると思いますし、私も基本的にはその一人で
す。特に以下の様な考えもとても大切だと思っております。

ただし、この状況には必ずと言っていいほど「代わりの誰か」が業務を終わらせる責任を分担してくれている状態があり、特定の人にこの状況が偏っていなかったとしても、それぞれの方にこの状況を受け入れる際の何かしらの心の動きがあるはずなのです。

ヘルプシーキング的にお仕事を分担したり頼みづらくさせるようなことを言っているので、矛盾するような発言かもしれないですが、決してそうではなくこの心の動きを無視してはいけない。それこそ多様性なのではないかという考えがあります。

当事者になってみないと分からないこと

この時の心の動きをあえて言葉にしてみると、「あの人が優遇されている」であったりとか「私たちの評価はちゃんとされているのだろうか」など、少なからず嫉妬とまでは言わないが公平性に欠けるような感覚を覚えてしまうような状態があるのではないだろうか?

なぜ、こんなことを言っているのかというと今思えば本当に器の小さい恥ずかしい話なのですが私自身がまさにそういうことをかつて少なからず思っていたというのが実際のところです。

諸事情があって時短勤務であったり、雇用形態の制限があったり、突発的な理由で業務を任せきれない状態があるなどの局面において、若い独身だった自分がどんどん代わりをしていく、あるいは他の人が代わりをする状態を見ているという経験をしていた時の話です。

あまり言葉にしたくはないのですがいわゆるもやもやした気分というか感情を持っていたの事実なのです。

これってシンプルにその状況や立場を経験したことがないからに他ならないと思っていて、なぜならば自分自身がまさにその状況を疑似的に、あるいは意識的に自分自身が体感する機会をその後得ることができたから言えることである。

育児休暇明けの方のマネジメント及び私自身の育児休暇取得という経験

これは本当に有難い機会だったのだが、私自身がマネジメント職を経験させていただくにあたり育児休暇を経て復職される方と一緒に働かせていただく機会をいただくことがあった。

1on1カルチャーも既にある会社でしたので、各種ご家庭を含めて大変な状況を日頃からお聞きしていたし仕事と家庭のバランスの中での葛藤も非常にリアリティを持ってうかがいしることができていたと思います。

一方でそうではない立場の人たちとのコミュニケーションの機会も当然同じように持っていたのでそのGAPみたいなものは残念ながら感じざるを得なかった部分もありました。

ここで初めて疑似的に、かつての自分と、多様性として受け入れるべき存在の両方の立場を体感することができたのであるがそれは正直言って苦しい部分がありました。

自分の見識の狭さに対する歯がゆさもさることながら、相手の立場を心の底からは理解できない人の意見もしっかりと傾聴していく必要性のある状況、決して八方美人になりたいわけではないが、一方で厳しい物言いをすれば対立の構造を生んでしまう危うさ。

この部分の葛藤は結果論としての今、良き経験であったことは間違いありません。

またその後私にとっても大きなチャンスがありました、それは2人目の子供の誕生。私自身、仕事も家庭も大事にできるビジネスパーソンになりたいという目標があるためその一環として育児休暇を取得したかったという個人的な願望ももちろんあるが、これこそ私自身が多様性における相手の立場を理解することを実現できるまたとないチャンスであるという想いもあった。

そしてもちろん所属企業の理解や環境というものがしっかりと相まって短い期間ではあるが3か月間の育児休暇を取得するに至った。

世の中の大変な想いをしている「お母さん」の立場を経験したなんておこがましいことを言うつもりはないが、私自身3か月の育児休暇経験をしてその大変さをまじまじと近くで見る、ほんの一部ではあるがそのサポートをさせていただく時間を過ごして、心の底から世界中のママさんに一層の尊敬と感謝の想いを持つことにつながった。(※それまでもこの感情が無かったわけではないのですが体感としての尊敬みたいな、そういうちょっと適切な言葉が私の語彙力では見出せません笑)

これは多様性の中のほんの一部だと思うが、この2つの経験は私の視座を更にぐっと引き上げてくれたような気がしている。

これって見返りを求めることなんだろうか?

話を引き戻して、当事者になってみないと分からないようなこと、それによる心のもやもや、ざわつき、葛藤といったものは私みたいな幸運な状況はさておき中々相手の立場になって考えてみるということは難しいというのが現実なのかもしれない。

また自分自身も思っていたのが、これっていつかブーメランのように自分に返ってくるような事象なきもしていて、まさに多様性の当事者になる機会は誰にでもあり、そしていつやってくるかもわからないのだがその時になってみて初めて「あの時の大変さってこういうことだったのか・・・」「全然わかってあげられてなかった」なんてことが生じるような気がしている。

でもだからと言って、いつか自分のためにもなるからわかってあげようよみたいな声掛けも果たして最適なんだろうかという疑問も感じていたりする。(自分は使ってしまいがちな表現なんですけど)

だってみんながみんな同じ立場や状況に必ずなるなんて保証はないわけだし、ずっと「代わりにやる誰か」で終わっちゃう人だっているかもしれない。そういう方にいつか自分のためになるかもなんてロジックは通用しないわけですよね。

だからこそ問いたい。これってそもそも見返りを求めるようなことなんだろうか?と。これを当たり前のことだと思って、「代わりにやる誰か」を実装していく、受け入れる、円滑に業務を実行し成果を出していく。この枠組み自体が自然と根付いている状態こそDE&Iなんじゃないだろうか。

そして見返りではないとしてもそのことを適切に評価していくような社会や企業としての仕組みも求められるのかもしれない。

きっと続く多様性の影響と葛藤

ここにきてまたちゃぶ台返し的なことになるかもしれないが、上記のことを言ってみたところで、じゃあ明日から誰もが「そうだそうだ、納得した」なんてことには残念ながらならないのであろう。

感情のある人間がやっているのだから、白か黒かではっきり結論付けできるようなことはもしかしたらまれでグレーゾーンみたいな中で折り合いをつけていく日々が続くのが人生なのかもしれない。

だけどこれから先もこのDE&Iについてのあらゆる局面での葛藤とそれに対する打ち手みたいなものをずっと考えていく覚悟を決めるってことが必要なのかなと感じています。

色んな意見があって良いのだけど、こうしたことを真剣に考えていく世の中にしていきたいなと強く願うばかりです。

「誰もが次世代に誇れる社会」を目指している会社なので。

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