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「この祭に夕闇色も」を通じてまふゆママを、親を理解する

 お久しぶりです。自分語りは不要なので新規記事が出なかったことは話しません。久々にニーゴのイベントストーリーを見て自分の思ったことを残すために記事にしていきます。


0.「迷い子の手を引く、そのさきは」を経て

 まふゆママは「迷い子の手を引く、そのさきは」のストーリー以降、まふゆに対しての愛情が更に増します。それはまふゆママの中では決してブレることのない「まふゆへの愛」がより顕著に表れていくことになります。
 まふゆが本屋で参考書を探している時に電話がかかり、もう既にその参考書を買っているという衝撃の行動。昨夜の晩御飯中の会話を聞き逃すことのないまふゆママの愛が存分に発揮されている。この行動を「普通」の人であればどう解釈するのだろうか。気持ち悪い、愛が重い、行動を制限されているみたい。そう、思うのかもしれない。ただ、まふゆはこのお母さんの行動に対してこう口にしたのだ。

帰らなくちゃ


1.愛は不器用であるべき

 好きな物ができた時、自分はどう思いどう行動してどう発言するのだろうか。千差万別ではあるが、盲目になりやすいのが愛であると考えている自分は伝え方を間違えてはならないということ。
 まふゆママも条件に当てはまる。まふゆに対して盲目になっていて、言葉と想いが剥離しているのだ。自分の子供が勉強ができて、将来困らないようにアドバイスをして、社会に貢献できる人間するという親の想いがまふゆママ、いや朝比奈家で垣間見えるのだ。
 しかし、そのような愛情は親として正しくありながら依存への道になる。親の言う事が正しいという依存に。では親は子に対してどう接するべきだったのか。まふゆママはまふゆにどう接するべきだったのか。答えは単純で明快だ。愛は不器用であるべきと。


2.子どもの邪魔をする者は排除する

 親は子に対して干渉しすぎてはならない、かといって干渉しなさすぎるのもいけない。今回のストーリーでまふゆは「シブヤ・フェスタ」というイベントの学生ボランティア活動に参加することになったのだが、参加理由として「母から言われた週末の勉強をいい感じに回避しつつニーゴのみんなと『シブヤ・フェスタ』を楽しめる」のではないかという考えが見えてきた。(勿論そんなことはストーリー上にまふゆの口からも言葉としても記述はない)また、ボランティア活動の内容にも「救護」という文字を見つけ、母の反論材料も見つかった。これはまふゆにとってはとても好都合だからこそ乗る手はないのだ。
 そしてまふゆから週末の勉強はできない、ボランティア活動をすると口にするとまふゆママのこれ以上ない愛の言葉が放たれる。

ボランティア?どうして今の時期に

 この発言からわかることとしてまふゆママの視野はかなり狭くなっている。前回のイベントストーリー「迷い子の手を引く、そのさきは」を経てまふゆに対する不信感や疑惑、1%も逃さない。ボランティア活動は「普通」であれば「悪いモノではない」ということはハッキリとわかるはずだ。推薦入試や面接でも有利になることは間違いない。しかし、まふゆママの聞き方には毒がある。「今の時期に」
 これは「普通」は受験が忙しくてボランティア活動よりも勉強を優先すべきという考えではあるだろうが、あくまでも一般的だ。じゃあ「普通ではない」考えとは?まふゆママに寄り添って考えてみた結果

ボランティア?どうして(私があなたを疑っている)今の時期に

 こう捉えることができた。ただ、ボランティアをするだけなら否定よりも肯定できる。しかし、まふゆママはまふゆに対して今不信感や疑惑を覚えている。そんな最中で「娘が週末の勉強を捨ててまでボランティア活動を優先するのには何かしらの理由が存在する」と考えたのだろう。
 まふゆママは意見を述べる。
「負担になるようなら、私から先生に言おうか」
 しかし、これはまふゆも想定済みと言わんばかりの反撃。まふゆママはここでは突っ込むことはしなかった。まふゆが部屋で勉強をしてくると言った時、引き留めこう言った。

一緒にボランティアに行くのはクラスの子?学年や学校が違う子も参加するの?

 あまりにも鋭く毒のトゲがある言葉だ。今まふゆママは「まふゆが勉強を疎かにして音楽に打ち込むような原因が友達にある」とにらんでいるからだ。詮索を逃さない。まふゆは「今日頼まれたばかりだからわからない、どうして」と聞く。勿論まふゆママも本音は言わない。

仲良しの子がいれば、まふゆもボランティアのお仕事がやりやすいんじゃないかって思っただけよ


3.バランスを保つのは親である

 自分に子供はまだいない。しかし、まふゆママの気持ちに寄り添うことはできる。大切な人を安心して過ごせるように全うする親の姿は正しい。ただ、まふゆママの行動は視野が狭く干渉しすぎた結果だ。不器用である。しかし、愛は不器用であるべきだ。それは干渉しすぎない/干渉しなさすぎを子どもに親は送るべきなのだ。それは母がどっちかに特化して父が母と違う部分で特化するということではない。母も父もどちらも子どもに干渉する部分と干渉しない部分(=不器用)を作って子供に愛を注ぐべきである。そうすれば朝比奈家、そしてまふゆが親への期待で生きる人間にならなかったと。親も子供も身体も精神を保たせるのは親である。


4.余談

 実際、成人してからも子供の面倒を見ている親は少ないだろう。自立するべきという考え方があるから。それは勿論自立すべきだ。ただ、自立したからといって親は子供の目を離してはいけない。どんな時もどんな年齢になっても。それが親子であるべきと感じているから。

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