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花見 四月上旬〜五月上旬頃奈良時代以前からあった豊作祈願の習わし

花見

四月上旬〜五月上旬頃奈良時代以前からあった豊作祈願の習わし


花見の起源については二つの説があります。
ひとつは奈良時代の貴族の間で催された「花宴」に由来する説で、これは中国の唐王朝の文化にならって、梅の花を観賞しながら歌を詠む催しでした。平安時代に入り、嵯峨天皇が八一二年に泉苑で「花宴」を催したとされていますが、この時にはすでに梅から桜を愛でるようになっていたようです。その後、八三一年に「花宴」は宮中の定例行事とされ、その様子は『源氏物語』などにも書かれています。もうひとつの説は、奈良時代以前にさかのります。古代の農村では稲の成長を司る神様が信奉され、桜が神様の到来(田植えの始まり)を告げる重要な役割を果たしていたことから、桜の木にお供え物をして一年の豊穣を願ったことに由来するという説です。



醍醐の花見

歴史的な花見としてよく知られているのが、一五九八年の春に豊臣秀吉によって催された「醍醐の花見」です。京都の醍醐に七百本の桜を植え、豊臣家の重臣、諸大名などを従えて、大々的に行われたこの花見は、盛大かつ華麗なものだったと伝わっています。桜の植樹を奨励した江戸時代の将軍たち江戸時代に入って、三代将軍家光から八代将軍吉宗にかけて、将軍たちが桜の植樹を奨励したことから、江戸の各地に桜の名所が次々に誕生し、庶民の間にも花見が広まっていきました。上野の山は三代将軍家光の命で、向島(関東大震災で消失)は四代将軍家綱の命で、小金井堤は三代から八代将軍吉宗の命で、桜の名所になりました。



お花見お花見は、奈良時代以前からあった?

の起源は2つありますが、一つは奈良時代の貴族の間で催された「花宴」という行事によるとされている説です。その時代は一本の梅の花を観賞して歌を詠むものでした。中国の唐王朝の文化にならって行われたといわれています。安時代に入り、嵯峨天皇(さがてんのう)が812年に神泉苑(しんせんえん)「花宴」を催し、この時にはすでに梅から桜を愛でるようになっていたようです。その後831年には宮中で天皇主催の定例行事とされ、「源氏物語』にも「花宴」の様子が書かれています。もう一つの説は、奈良時代より前、古代の農村では稲の成長を司る神様を信じ、桜がその神様の到来を知らせる重要な役割を果たしており、桜の木にお供え物をして一年の豊穣を願ったことによるとされる説です。田植えの始まりを告げるのが桜の開花だったのです。


江戸時代から盛んになったお花見

有名な花見では、豊臣秀吉が野外で催した醍醐(だいご)の花見や吉野の花見が知られています。江戸時代になり、8代将軍徳川吉宗が江戸の各地に桜を植え、花見を奨励したことから庶民へ広まりました。花見といえば、落語の『長屋の花見』が有名です。また歌舞伎では、吉原の桜のほか奈良県吉野山の桜を『義経千本桜』で現しています。



染井吉野は品種改良された桜

は染井吉野が一般的ですが、昔から山桜、里桜、 枝垂れ桜、寒緋桜んの品種があります。染井吉野は、江戸時代後期に品種改良された桜です。全国各地で開催される花見の行事では、早く咲く伊豆の河津桜や大阪造幣桜が有名です。

東西でまったく違う桜餅

桜餅には、東西で違いがあります。が粒状の道明寺粉を使った皮で餡を包んだ道明寺餅。江戸風がもち粉又は白玉粉に小麦粉を混ぜた生地を薄く焼いた皮で餡を包んだ長命寺餅。どちらも塩漬けの桜の葉でくるんでいます。現在でも江戸時代の形を残した桜餅を前島の長命寺で販売しています。これは桜の葉3枚でくるまれた桜餅です。



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