月と太陽と。
グツグツと煮えるお鍋を囲いながら、友人は語り出した。
「わたし、人間関係を月と太陽に例えるのが好きなんですよ。」
そこにいた他の3人が、友人の話に耳を傾ける。
「太陽は、自分で輝きを放つ存在で。だから周りに人がいっぱい集まって来るんです。それが、太陽っぽい人。月はその太陽の光を浴びて輝きを放つ存在。だから、太陽の周りにいる人のことを月っぽい人って呼んでいます。」
友人は話を続ける。
「で、わたしは月なんです。昔から、私の周りの友だちが、太陽みたいに自分の内側から輝く人が多くて。それでこの関係、太陽と月みたいだなって思い始めてから、人を太陽と月の関係に例えるようになりました。
わたしね、前に長く片想いをしていたことがあって。その太陽みたいな人に憧れて、ずーっと好きだったんですけど、近寄れない。近寄りすぎると、アツッて火傷しちゃうから。
でも、月っぽい人は、自分と同じものを持ってるから、異性としての魅力を感じれないんです。
今の旦那は、月の中の太陽みたいな人。だから尊敬もできるし、一緒にいて心地よいんです。」
遠回しにのろけかよ~!と、全員が笑った。
「ということは、相対的にグループごとに太陽になったり、月になったりする人がいるってことですね。」
別の友人が言った。
「そうそう。そうだと思ってる。」
わたしも太陽のような人に魅力を感じ、ひたすらに追いかけたこともある。自分が太陽のような人になりたいと思ったこともある。
それでもわたしは、(その友人の話をもとにすると) 太陽にはなれない月なのだ。
自分から、さんさんと強い光を放つことは、得意とはしていない。それなのに。わかっているはずなのに、今まではこの事実に対して、密に肩を落としている自分がいた。
けれど昨日は、友人の話を聞きながら
今は「月としての自分の輝きを大事にしたい」と思うようになっていたことに気づく。
それはきっと、ここ半年の間に過去の自分と対話して、嬉しいことにも、ほろ苦い出来事にも、分け隔てなく感謝できるようになったおかげだと思う。
こういう自分も自分らしくていいじゃないか。だから今の自分があるのだと、自分自身を肯定して、許せた。
過去の隠したかった自分を受け入れられたことで、わたしにしか放てない光を、淡くでも輝かせることに力を注ごうと思うようになったのだ。
友人は「太陽は内側から輝く」と例えていたけれど
月も内側から静かに輝けるんじゃないかなと思う。
さんさんと輝く太陽な人
やわらかい光を放つ太陽な人
淡い月な人
空にくっきりと浮かぶ満月な人
いろんな月の輝きがあって、いろんな太陽の輝きがある。太陽たちは月たちの明かりに支えられ、月たちは太陽たちの光を頼りに生きる。
お互いに魅力があり、お互いになくてはならない存在で、それぞれのカラーがあるからこそ、人間世界はおもしろい。
お互いの輝きを遮らずに、与え合いながら、共存している関係では、必ず自分の輝きを持たないと、輝きを保つことはできない。
だから太陽でも月でも、自分の輝きを愛することが大切なのだと、私は思う。
人が集まれば、必然的に役割が生まれる。
”空気を読んで、与えられた役割を演じなければならない”わけではなく、自然と笑っていられる輝きで、そこに居ればいい。
自分の灯は、消してはいけない。
お鍋をつつき合いながら、
月同士の友人たちと、「月と太陽」について対話した夜だった。
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