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心の内側を見つめて

NHKの100分de名著で
キリスト教の新約聖書、福音書の
放送があっている。

毎月何回か教会に通っている。
私は厳密にはクリスチャンではない。
教会の人は受け入れてくれている。
家に神棚や仏壇があり
お世話もしているし
お祈りもしている。

洗礼が厳密に言うと
他の宗教を認めていない。

NHKの番組で
人生を損得ではなく
意味を考えるという内容
だった。

旧約聖書をまだよく理解
していないので難しいのだが
新約ではイエスは神に捧げ物は
いらないと言ったとあった。

神の前で人はみな平等である。
これが私のエゴでは
中々理解しづらいところだ。

キリスト教は
はじめに言葉ありきであり
私は幼少期より金光教徒なの
だが祝詞で育ったせいか
こんなに言葉をわかりやすく
伝えていいのだろうかと
疑問にも思った。

アメリカの人に
限らず作家や色々な人が
牧師から思いもしない
酷い言葉を受けたと
書いている事もある。

しかし人間が平等ならば
言い返しても良いはずだし
その牧師が間違えることも
あるだろう。

私は幸いにも
西南学院の木村公一牧師に
巡り会えた。

本当に弱い立場の人の話を
聞いて共に行動してくれる
そんな牧師もいるのだ。

人間とは、自分とは
何かと尋ねる時
その答えを見出してから
人生を終えたい。

幻聴から
「死ね」と言われ
「死んでたまるか」と
言い返していた頃が
とても懐かしい。

今自分は手放して
自分自身を運転している
ような感覚だ。

宗教を嫌う人もいるが
それは自分を否定されたり
自分を破滅させたり
する怖れからかも
しれない。

ただ側に友人が
いてくれて
それが私にとって
財産だ。

きっと友達が
いなくても自分が自分を
好きならそれで良いと
思う。

常識からあまりにも
外れない行動であれば
他人にも迷惑をかけないし
許されると思う。

意識を外から内側に向けて
掘り下げる。

聖書は解釈によっては
酷く感じる事も
あるだろう。

正しく習えば
最高の書物だ。

心の内側にずーっと
入って行って自分自身と
対話する、
内側から外を
眺めてみる、
自分と違う人が
当たり前な世界に。
相互理解が
平和へと近づくのでは
ないかと思う。

大学のゼミが
宗教と哲学だった。
その頃よりは
キリスト教は理解できる
ようになった。

色々な違いを理解する
事も楽しみだ。

愛とは何か
車を運転している時に
友人から言われて
困ったが
その友人が言おうと
していた事が
少しだけ理解できたような
気がする。

神社で気を感じる事も
ある。木村牧師も
神社の場所は好きだと
言ってくれた。

祈りには
色々な効果がある。
自分の空白を埋めてくれる
そんな効果だ。

私の内なる、大いなる旅は
まだまだ続く。
これからどうなるか
楽しみだ。

今日も読んでくださって
ありがとうございました😊

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