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耳と「教場」

「聴力弱いですよね」と、アレルギーと呼吸器でお世話になりはじめた主治医に言われて驚いた。
聴力検査でひっかかるほどではないけれど、言葉など音として判別できないことが多く「自分は聴力は弱いにちがいない」とひそかに思っていたからだ。
「右の耳を前に出して聞くという動作が身についています。左の方が弱いんでしょう。でも、大丈夫。アレルギーの治療をしていくうちに聴力も戻りますよ」。
これからダニアレルギーの治療をはじめるという時期だった。
「この人を信じて治療しよう」と思ったわけではなかったが、この言葉で決めた部分もある。年齢的にだんだんアレルギーに対して体の負担が大きくなるのも不安だったし、なによりも「保険適用治療の年齢制限」もあったからだ。

そういうわけで「弱いと思っている分」耳を大事にはしている。
聴覚情報は苦手で、視覚情報(活字)よりも脳に入りづらい。
戦争映画の爆撃音は苦手だし、言ってみればミュージカルも時にはきつい。
友人からの「私の朗読劇を見にきてよ」という誘いも、何年も断り続けた。
一度つきあいで行ってみた朗読劇は拷問でしかなかったですゴメンナサイ。

前置きが長くなってしまった。
耳の話を書こうと思ったのは、さとくらさんのこれを読んだのがきっかけです。

自分にも似たような経験がある、と、コメントしようと思ったら、頭の中の記憶が意外なほど長くて整理しきれなかった。
エピソードや思い出が蜘蛛の足のように広がってゆく。
「なつかしい」ということなのだろう。
ゆっくりと自分のページで書いて行こうと思った。

*   *   *

それは軽度の認知症のOさんの思い出話からはじまる。

当時ヘルパーをしていた私は夕方の夕食の準備でOさんの家に入っていた。
わたしが台所にいても、6時前になると「むすびの一番がはじまりますよ、一緒にみましょう」と相撲の観戦のお誘いをしてくれるダンディな方だった。
国文学への造詣が深く、短歌に詳しい。
夏目漱石の「こころ」についての講義が秀逸であったという噂も聞いた。
「(こころ)はわたしも大好きです」というと、「パトスをロゴスに変える」という話を延々としてくれた。
若い頃に身についた手続き記憶は、明日の予定をすっかり忘れても損なわれない。
だからこそ、Oさんはいつまでも「せんせい」とわたしたちから呼ばれていた(尊敬の意味をこめて)。

Oさんの台所には、この季節になると小さなアリがやってきていた。
奥様も入院中でそこまで目がいかない。ヘルパーの誰かがアリ退治してくれるのだが、また2〜3匹チョロチョロしだす。
砂糖に群がるというレベルではないので、「しょうがないな」くらいの感じでやりすごしていた。

そんなある日、台所で耳の中に違和感が走る。
チクリ。痛い。
耳に指を入れてみるが無駄である。痛みが増大するばかりだ。

6時までなら近くの耳鼻科が開いているだろう。
「せんせい。申し訳ありません。耳に虫が入ってしまったようなのです。10分早いのですが、病院に行くので失礼させていただいてよろしいでしょうか?」
「それは大変! 自分が車で送りましょう!」
イヤイヤイヤイヤ汗汗。それは危な、いえ、自分で行けますので大丈夫です」

会社に連絡して、耳鼻科へ急いだ。6時10分、受付は終了している。
幸いまだ待合室には1組の親子が待っていた。
頼み込んだ。
「痛くてたまらないんです。アリが入ったんだと思います。お願いします。診てください」
必死な顔をしていたんだろう。あっさりと受け付けてくれた。
そして、小学生らしき女の子を連れたお母さんが診察室にいるあいだ、わたしはソファに倒れ込んで悶絶していた。

この痛みは。経験したことはないけれど覚えはある。
「教場」だ。
ちょうど「教場」の小説を読んだばかりだった。
聴力が自慢の同期生を陥れるために、アリを仕込んだヘッドフォンをわたす。そのヘッドフォンには接着剤がついている。前進しかできないアリは後退はしない。どんどん前に進んで鼓膜を突き破る。
そういう話だったと思う。
「教場」はこういうハードに怖い話が多く、楽しめた反面とても怖かった。

しかし、これはあくまで「対岸の恐怖」だ。
わたしは警察学校にいるわけでもないし、誰かにここまで陥れられる筋合いもない人間である。
そんなわたしが、これと同じような目に遭うなんて!
ああ。わたしの鼓膜は無事でいられるのだろうか?

ソファで悶絶するわたしをやっと先生が呼んでくれた。
映像を見ることができる機器を耳の中に入れる。
「ああ、アリが入っているねえ」
マンガのように、耳の中の小さなトンネルいっぱいにアリが1匹蠢いていた。
「はいっ!」
先生がそう言うと、耳に入れた管があっというまにアリを吸い取ってくれた。
「これで大丈夫ですよ」
涙が出そうだった。ありがとうございます。時間外の駆け込みだったのに。
当たり前のように治療して、ありがとうございます。

会社に報告して、治療費を持ってもらうようになった。薬は出たっけ?
とりあえず、すごく取り乱していて、その日は支払いのあとに健康保険証を窓口に忘れていったようである。

なにか。このことから学べることはあったのだろうか?

あまりないが、ときどきこういうシンクロニシティは起こるということは言えると思う。
「教場」を読んだから「痛みの理由」はわかっていた。そして「鼓膜の破れる可能性」についてもわかっていた。幸なのか、不幸なのか、それはわからない。

ちなみに今、テレビで安倍総理の銃撃の中継を行なっているが、意外にも先月宿泊した奈良の大和八木駅が登場したのでびっくりしている。
中継の病院も覚えがある。この病院をランドマークにしていて、バス移動のさいに「もうすぐ駅が近い」など判断していた。
R.I.P

いろんなシンクロニシティを起こしながら、こうして日常は続く。

その後せんせいの奥様は肺炎でなくなり、せんせいのひとり暮らしはじょじょに困難となっていった。
かつての教え子の手配でどこかの施設に行かれたと聞いている。

当時せんせいの家に定期的に行っていた福祉用具さんと、先日思い出話をした。
「せんせいに教わることはたくさんあった。教養豊かなせんせいの話は、どんな話題もおもしろくて、聞くのがとても楽しみだった」ということで一致した。

介護というのは「人をケアする仕事」であるが、それだけではない。
いろんなナラティブを共有する仕事だと思う。
誰かのナラティブを聞くこと、感じること、いっしょに共有すること。
それがとても大事な役割のような気がしている。
わたしたちは「せんせいのナラティブ」をみんなで共有していた。
同じナラティブを共有できる関係というのはとても幸せっだったと、わたしは今も思っている。

ほら! やはり「耳の話」は予想どおり長くなってしまった。
さとくらさんのコメント欄に書きすぎて迷惑かけなくてよかった!






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