マイケル・サンデルってどこいったの

亜米利加のいい大学からやってきたマイケル・サンデル氏が評判だった。 彼の著書なのか講義をまとめたものなのか知らないけれど、『さあこれからの「正義」の話をしよう』(うろ覚え)だか何だかという本も、巷には山積みであった。 氏の大きな特徴はその講義のスタイルだ。それは、大教室で学生たちとの闊達なやりとりを通じて、諸問題の結論に向かうという技法であり、自ら考えさせて気づかせるという効用がある。 そのような技法は、お釈迦さまの十八番でもあり、その説法の一つ「恐怖!!死んだ赤子に薬を求める女…キサー・ゴータミー!!」において如実である。 この物語について詳しく書くのはめんどうなので、気になった方はどうか今その目の前にある便利なハイテク機械で「キサー・ゴータミー」と検索していただきたい。 それはそうと、帝國大学にて氏の講義がおこなわれた模様で、その様子の一部を新聞で読んだ。非常に長かったので途中で飽きてしまったのだが、侃々諤々大いに結構な様子であった。 ただ、そこに集まっている人々は、確かな知識と教養に裏付けられた常識を具えており、その場においての「一般意志」が形成されている風に思った。 私は「正義」とは、その時代・共同体・地域・宗教などで目まぐるしく変化する、場合によってはそれが消滅することも含めた、相対的な概念に過ぎないと思っている。それゆえに、異なった「正義」同士が時に諍い原因となる。むしろ諍いの原因の殆どは、お互いの正義の主張によるとさえ思う。 念のため言っておくが、私は「正義」が相対的であるからと言ってそれが無価値と主張しているわけではなく、むしろ人間社会の形成においてそれは必要な概念であると思っている。そこは誤解無きように願いたい。 話は逸れたが、つまり「正義」について語るとしたならば、一般意志を形成できるような極めて同質的な人間ではなく、それこそ多種多様な連中とともに、同じ釜の飯を食べながら議論を交わすべきである。その場合は、確実に殴り合いのケンカになるのだろう。そして、それが結論でもある。 ちなみに、またまた断っておくが、私は別に同質的な人間同士での議論がムダと言っているわけではない。自身が属する社会的地位においてのそれを確認するという意味では、思考実験も有用な手段である。 それにしても、そのような「正義」云々に関する本が結構売れるということは、人々はそれなりに「正義とは何たるや?」ということに関心があるのだろう。 国民の劣化を喧伝するヤツらが一部にいるけれども、これほどまでに知的好奇心豊かな人間が多い国もそう無いのではないだろうか。 各国の出版業界のデカさや、その中での人文科学系版元の数、売上占有率など、それぞれ知る由も無いけれども、私が都会の書店に勤めていた頃、土日祝の哲学書の売上はなかなかのモノであったことを思い出す。

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