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連作短編小説【おにぎりと彼女たちのルーティン(全4話)】第4話〈後編〉:塩おにぎりの彼とたらこおにぎりの彼女

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■第4話〈後編〉:塩おにぎりの彼とたらこおにぎりの彼女


 祖父の最期に立ち会ったのが僕だけであったことを伯母たちが快く思っていないことは明らかだった。僕の離席時に繰り広げられる陰口が年々激しくなっていることにも慣れた。
 到着した僕が形ばかりの笑顔を貼り付けてリビングに顔を出すと、皆はっとして振り返り、からくり人形のようによそ行きの笑みを浮かべた。
 祖父と父と母の仏壇に手を合わせ、玄関に置いた荷物を二階へ運ぼうと廊下を歩いていると、兄と鉢合わせた。
「ひさしぶりやな」
 屈託のない笑みを見せる。相変わらず、不自然なほど真っ白な歯が薄暗い廊下でもかすかに光っていた。
「義姉さんとあの子は?」
「ああ。別れた」
「は?」
「うそうそ。紗代は体調崩して今回は欠席で、あいつは…」
「しお兄ちゃん」
 兄の声を遮って、鈴が揺れるように愛らしい声が飛んできた。姿がないのできょろきょろしていると、階段の踊り場から身を乗り出す影が見えた。
「危ないやろやめんか」
 兄が咄嗟にそう声をかけて、もう22歳やのにいつまでもあんなんなんよ、と大げさに肩をすくめる。
 兄の妻で義理の姉の紗代さんとは、祖父の葬式以来一度も会っていない。別れたという嘘をついた兄に深い意図がないことなど分かってはいるが、僕は兄のこういう部分に毎度失望する。
 それは兄が父代わりになった時から始まった。こちらが大真面目に尋ねた質問に対して、真逆の答えやふざけた嘘で返す。なぜ本当のことを淡々と答えられないのだろう。こちらに気力があるときには気にならないが、若干でも疲れているときにはそう思ってしまう。それは彼なりの場の和ませ方であることを知っているから責めることはないが、子どもの頃にはずいぶんな不信感を覚えた。まるで毎日迷子になっているような気がしたのだ。目の前にあるのに掴むことができない不確かな幻が、真実の手前でそよそよなびいている。不快ではないが心地良くもない。その違和感は年を追うごとに深まった。それは兄が僕の代わりに大人の役割を担う場所へ出かけるたび輪郭を濃くしていったからだろう。
 兄は義姉の欠席を、〝今回は〟と言ったが、数少ない一族の集まりに彼女が顔を出すことはほとんどなかった。「まあ、カラス軍団と同じ部屋におるだけでエネルギー持っていかれるけんな」兄は飄々と言ってにかっと笑った。
 カラス軍団というのは、すなわち伯母たちのことだ。小さな止まり木にぎっちりと止まって黒々とした体を揺らしながら甲高い声で鳴き続ける。僕ら兄弟の恐怖にこの名前をつけた兄はその日、満足そうに目を細めていた。
〝あのカラスたちは結局、悲しい鳥たちなんやぞ。誰からも好かれず身を寄せ合って、自分らを好まん者の悪口しか話せんような呪いをかけられとるんやから〟
 呪いという言葉に、一瞬体のはしっこがかたくなるのを感じた。兄は引きつった僕の顔を見ると慌てて、「でもああやって身を寄せ合えるんやから幸せなこった」と言ってけらけらと笑った。
「でもなシオン、お前はカラスやないんやから、あの止まり木には近寄るんやないぞ」
 笑い終えると彼は顔をぐっと近づけて言った。
「じゃあ僕はなんの鳥?」
 恐怖を背中にしまいこみながら問うと、
「それは…、大人になってからのお楽しみやな」
 兄はそう言って僕の頭のてっぺんに日焼けした大きな手のひらをのせ、くしゃくしゃっとした。その日は珍しく、真実ははっきりとすぐ目の前にあった。
「そうそう。言い忘れとったけど、俺だけ今日の夜帰るけんな」
 玄関のほうへ踵を返した兄は軽々と言う。
「あの子を置いていくの?」
「お前なあ、あいつはもう大人やぞ。駅まで歩いて行ける距離やし、帰りの荷物が多けりゃタクシーだってあるんやから」
 たしかにそうだった。彼女はもう22歳だ。たった3年ぶりなのに最後に会った頃まだ成人していなかった彼女がとっくに成人して2年も社会を生き抜いていることに、改めて衝撃を覚えた。
 兄は仕事の都合だと言っていたがおそらく家で紗代義姉さんが待っているのだろう。なんだかんだいってもあの夫婦の絆が強いことは、姪の成長を見ていると分かる。
 義姉は半ば遊び人だった兄を唯一、誠実な人間へ変えてくれた人。そしてこの一族の中で生きてゆくにはあまりにもか弱い人。海に放たれた金魚のように。
「夜の座談会?打ち合わせ?話し合い?やったっけ。それだけ出席してから帰る。ばあちゃんには許可もらっとる」
 責めているつもりはないが、そのように感じたのだろう。後ろめたそうな背中で、しかししっかりと兄は答えた。十分だと思う。僕は兄から見えないだろうがそっと頷いた。兄はそれを気配で察したようだった。
「俺、ちょっと買い出し頼まれとるけん出てくるわ」
 そう言って出かけて行った。
 僕に比べて兄は何倍も社交的だ。父代わりになるにはそれが必須条件であることを兄は本能で感じ取っていたのだと思う。もともと人見知りもなく、誰とでも当たり障りなく言葉を交わすことができる性格だからこそ、周りは兄に負荷などないと思い込んでいたようだったが、もちろん嫌いな相手や大きな集まりでは自分ではない者にならなければならないことだってあっただろうと思う。そのあたりから、彼が使う言葉の中に嘘の含有量が増した。
 そして僕の内向具合は、兄の外向と反比例するようにそっと進行していった。

 兄が閉めそこなった玄関の隙間をやれやれと閉じて、端にまとめておいた荷物に手をかける。たった2泊3日だがノートパソコンや仕事の資料も持ち込んでいるため、それらは裕福そうに幅をきかせて僕を待っていた。それぞれの手提げ部分をまとめて指にからめ、持ち上げる。よいしょっと小さなかけ声が無意識で漏れたことに気づかぬふりで階段を上り始めた。子どもの頃にはついていなかった手すりの存在に、心なしか安堵しながら片手で握りしめる。あの頃は両手を足に見立て、四足で一気に駆け上がっていたっけ。
 
 1階は先住の伯母たちの部屋が主なので、客室のある2階が宿泊時の居所となる。2階には5部屋あり、そのうちの手前3部屋が親族が一時的に泊まる際の部屋で、奥の2部屋がお客様用の客室になっていた。今現在、お客様がどれほどいるのかは謎だったが、子どもの頃にはそれなりに来客があった。お酒が好きだった祖父が訪ねてきた客人をそのまま泊まらせることが多かったからだ。祖母はペンションを営むのが子どもの頃の夢だったらしく、夢見たペンションよろしく客室を整えてもてなした。僕ら兄弟が住んでいたのは1階の一番奥だったので、興味津々でその様子を覗いては自室に戻るを繰り返していた。
 ふと当時のことを思い出しながら階段を上りきると、手前の部屋の扉が開いていた。全開になった窓から入ってきた風が、部屋中を楽しげに走り回っている。
 姪は部屋の中央に座りこんで何かを読みふけっていた。こちらへ背を向けているので逆光になっている。その様はほとんど天使のように見えた。
「…さゆ」
 驚かさないよう静かに声をかける。彼女は耳がとても良いので、突然大きな声を出すと小動物のように驚く癖があるのだ。それは耳が良いせいもあるが、そもそも目の前の何かに対して恐ろしいほどの集中力があるからというのが正しいのかもしれない。きっと本の世界に入り込んでいるのだろう。
「しお兄」
 長い髪を揺らして振り返る。その瞬間、正真正銘の天使だと確信する。
 さゆは年をとらない。少なくとも僕からみればそうだ。少女のままの時間を生きている。その年齢を更新する作業を僕の脳は受け付けないのだとも思う。
「さっき挨拶したばかりなのに…。本に夢中になってしまってごめんなさい」
 陽だまりの中で、ふふふと照れたように笑う彼女は、木漏れ日にそよそよ揺れる野花のようだった。
「上り始めの足音は聞こえていたのだけど」
 そう言いながら、図鑑ほどもある分厚い本をリュックサックにすっとしまいこむ。
「重くはないの?」咄嗟に尋ねると、「うん。良い本は背負うと軽いのよ」と返ってきた。
 ああ、さゆだ、と反射的に思う。彼女と会話をしていると、自分の体がどこか大事な場所へ一時的に収められて、心だけが解放され自由に動き回ることができるような錯覚に陥る。それは気持ちの良い昼下がりに見る白昼夢のそれに似ていて驚くほど心地良い。その既視感は、僕を穏やかに包み込んだ。しかしこの感情を彼女に伝えることは至難の業だし、そもそも言葉で伝える必要はないと思っている。
「仕事忙しそうだね。ワンマンライブなんてすごいよ」
 僕は自然と彼女の前に膝をついて座ると、井戸端会議よろしい体勢で話しかけた。
〝ふふ〟また照れたように笑う。風が彼女の笑みに連動しているように、さあっと入ってきては僕らをぐるりと撫で、再び窓から出ていった。
「 やりたいことをさせてもらえてとっても嬉しいの」
 彼女のマネージャーとは一度だけ会ったことがある。細身のスーツに髪をぴしっと後ろへオールバックでまとめたその姿は、さながら敏腕ホテルマンのようだったことを思い出す。仕事柄、芸能関係の人物にも取材を通して会う機会があるため必然的にそれぞれのマネージャーとも顔を合わせることがあるが、その中でもさゆのマネージャーは飛びぬけて異質だった。
「マネージャーの、誰だったっけええと…」
「城阪さん」
「そう、キサカさん。お元気?」
 さゆはにっこりとした。
「最近殺し屋に間違えられて戸惑ってた。あとは刑事とか」
 え、いつもあの出で立ちなの?スーツにオールバック?僕の心を読んだのかさゆはさらににっこりとして、「そうなの。あの恰好が落ち着くんだって。それ以外は心が休まらないらしいの」と答えた。
 たしかにそういうタイプの人がいることは知っている。別の部署だが毎日スーツ姿の女性がいた。人づてに、彼女にとって一番楽な制服代わりなのだと聞いた。納得はいく。組み合わせが最大限パターン化されているのだ。手入れの手間はあるかもしれないけれど、日々の選定作業は大幅に省ける。
 だが彼の場合はそれだけではないように見受けられた。戦闘服なのかもしれない。僕ら人間は武装することで心身ともに強くなれることがある。ただでさえ、マネージャー業は過酷なものだ。たとえ不死身で屈強な人物だとしても、常に戦場で成果を出しつづけるにはそれ相応の工夫が必要なのだと思う。
「城阪さんのおかげで聴いてもらえる機会も増えたのだけど、念のためにアルバイトを始めたんだ」
 唐突な報告に、お金に困っているのかと思い一瞬ひやりとしたが、僕の顔色を見てまたもや彼女は先に答えをくれた。
「大丈夫。事務所からのお給料は安定していて。一人でちゃんと暮らしてゆける程度にはなったの。でもいつなにがあるか分からないし、なにがあっても歌はつづけていきたいから。あんまり社会に出て行かなかったのもあって。こんな年だけれど少し怖くなったの。だから社会勉強も兼ねて」
 そうしてこっくりと頷く。長い黒髪を風がさらさらとなびかせた。
「それなら安心した。でももし何かあったらいつでも連絡するんだよ」
 大人ぶって言ってみたが、これは彼女を思い出す度心の底から唱えている言葉。さゆは、僕の娘のような存在である。必然的に子どもをあきらめたこの身には、唯一といえるほど尊い存在だと思っている。
「そういえばいつもキサカさんと一緒なんだよね。マネージャーだから仕方ないけど、その、男女の仲とかには…」
 彼の端正な横顔を思い出しながら尋ねると、さゆは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑って首を振った。
「そんなことないよ。キサカさんは、しお兄ちゃんとおんなじだから」
 ゲイだったか。
 ぼんやりと考えていた予想が的中した。同じ感覚の持ち主は一目見ただけで分かることが多い。むろん確信は持てずおぼろげな予感のこともある。彼は後者だった。
 一族で僕のこの部分を知るのは兄とさゆだけだ。だが兄は認めたり許容しないため、 理解者ではない。その点、さゆはごく当たり前のことのように受け取ってくれている。彼女にも面と向かって打ち明けたというわけではないが、気付いていた様子だったので以前それとなく話題の中に取り込んだら違和感なく通じたという具合だ。
 兄のほうは、幼少期から一番近くで僕を見てきたからこそ歳を重ねるにつれて違和感を覚えたようだった。そして言葉にはせず、圧倒的な無言で制圧した。
〝俺の前でそれを明らかにするな〟
 一時期、彼はその目から背中からいや全身からそのメッセージを発していた。僕は全力で隠し通すことを心に誓い、表向きには平和な兄弟関係を続けている。それからは隠し通す行為が板につきすぎて、いつのまにか自分の脳内を浸食したようだった。以来、性の対象者は同性のままだが性への衝動や欲求はほぼ感じなくなった。わざわざ出会いの場へ出向くこともなく、たまたま出会った相手がたまたま同じ対象であり求められれば応じるという流れになる。そしてそのような奇跡はめったに起こるものではないため、ひっそりと独身でひっそりと独り暮らしを送りつづけている。
 いや、正確には二人暮らしだった。とっさに〝たらこ〟の存在を思い出した。なぜ今の今まで忘れていたのだろう。突然の虚無感に襲われて、足を投げ出しそのまま畳に寝転んだ。さゆは急に脱力した僕の様子を見て、愉快そうにふわふわと笑っている。
 このまま時が止まればいい。不甲斐ない飼い主として努力の仕方をリサーチもせず、ただただ現実逃避をしている僕を、何も知らないさゆはそっと覗き込んだ。その黒目はどことなくたらこに似ている。
「ああ、キサカさんも、そうだったんだ~」
 たらこのことは話さずに、青空をぼんやりと眺めているようなテンションで平和的につぶやいてみた。
「そうだ、始めたって、何のバイト?」
「アニメの制作会社」
 さゆはのぞきこんでいた顔をひっこめて、ゆっくりと噛みしめるようにそう言った。
「また珍しいところ選んだね。合ってそうだけど」
 へへへと笑う。風も嬉しそうに大きな螺旋を描いている。さゆは窓辺に移動して、ガラス戸を半分まで閉めた。
「そこの部署のえらいひと、ディレクターさんのひとがね、不思議なひとなの」
 背を向けたまま、なんでもないことのように言う。両肩がほんの少し待ち上がるのが見えた。聞いてほしい内緒話を打ち明けるときの仕草だ。
 僕は寝返りを打ちうつぶせになってから、両肘を畳に立て上半身を持ち上げながら体勢を整えた。そして彼女の小さな背中をそっと見つめた。
「うまく喋ることができない人なのだけど、絵を描いて伝えてくれるの。あ、言葉は話せるのだけどそんなに長く喋ったりキャッチボールみたいな会話が苦手みたいで。だけどその絵が言葉よりも心にきちんとやってきてくれて、円滑なの」
 彼女は途中でつかえながらも、大切な小箱を開くように話しつづける。
「周りのみんなにも同じように接していて。そしてみんなに心から信頼されてる。彼が目の前で描く絵は的確で俊敏で無駄がないけどあたたかみもあって。不思議なの。言葉の代わりの絵ってわたし、初めて見た」
 そこで静かに、小箱はしまった。
 ほうっと、感嘆にも似たためいきをつく彼女の頬は高揚していた。
 彼女からそんな話を聞くのは初めてで、 僕はどう答えたらいいのか分からず言葉を探しながらじっとしていた。
「しお兄のお仕事の話をして」
 しばらくしてから、沈黙を両手で優しくかきわけるようにさゆは尋ねた。
「仕事?うん。ええと…そうだ。最近絵本製作の担当になって。イラストレーターさんの作品なのだけど、その人と新しい企画が始まりそうなんだよね」
 彼女は興味津々という顔でこちらへ近づくと、すぐそばに腰をおろした。
「その人は女性で、数年前に知り合ってちょこちょこ一緒にお仕事してるのだけど、最近なんだかおだやかというか、自分の波に向き合って乗りこなしている感じがして」
 うんうんとうなずきながら、今度はころんと僕の隣に寝転ぶ。
「冗談で不安定なふりしてるのだけど、ここ数カ月は雰囲気違うんだよね。あの感じだとこれから成功していくと思う。あ、えらそうになっちゃった」
 そう言って笑うと、さゆは嬉しそうな表情をして大きく伸びをした。小さな体がぐぐぐと一回り大きくなる。
「その変化に気づけるの、しお兄らしいね」
 そうかなあ。照れくさくなって僕も伸びをしてみる。割と細長い体が縦と横に少しだけ広がった。
 それから僕らは6畳一間の畳の上でくつろぐ2匹の老猫のように陽だまりの中でじっとしていた。
「そうだった!」
 突如、 さゆの感嘆にも似た声がうとうとしていた耳に届いた。彼女は勢いよく起き上がると、リュックの中からいそいそと白いワンピースを取り出した。四次元ポケットのように次から次に物が出入りする巨大なリュックは、彼女が手を入れるたびその小さな体ごと吸い込んでしまいそうな気がしてひやひやした。
「あ!そうだった!」今度は僕が声を上げる番だった。さゆからの依頼を思い出したのだ。ステージ衣装に刺繍を施すという仕事のことを。
 
 子どもの頃、刺繍と僕の距離は親密でいて後ろめたいものだった。酒に酔った兄に一度だけ、女々しいと罵られてからはますます家の中でやりづらくなり、人気のない土手や河原に一式を持ち出して縫いつづけた。それでも通りすがりの同級生に見つかると冷やかされたり大きな声で騒がれることもあったので、体が大きくなってからは、行きつけの本屋の隅で刺繍させてもらった。その一角は、当時の自分が逃げ込める心のシェルターだった。一針一針がお守りのように感じられるその時間。安息の場所があるのは人として最も恵まれていることだと思う。
 なぜ本屋で刺繍ができたかと言うと、まずその本屋の一角には刺繍糸が大量に売られていたからというのがある。6畳ほどの空間に、世界各国の刺繍糸が色ごとに束ねられて置いてあった。店主のおばさんに話を聞くと〝本と糸が好きだから〟というシンプルな動機が返ってきた。
 世界の糸は、世界各国を旅しているご友人にお願いして見繕ってもらい、帰国するときに合わせて買い取るか海外から送ってもらっているという。一方おばさん自身は、これまで一度も海外を旅したことがないらしい。
 一見異色の組み合わせではあるが、色とりどりの本たちが占拠するその店内の一角に、色とりどりの刺繍糸が並んでいる姿はごく自然でありしっくりと馴染んでさえいた。酢豚とパイナップルのような関係性だ。最初はぎょっとするけれど、一度気に入ればなくてはならない関係性となる。訪れるたびに心が満たされてゆくのを感じた。
 おばさんは当時30代後半で、ゆるくパーマをかけたロングヘアを後ろでラフに結んでいる様子が垢ぬけていて憧れだったことを思い出す。化粧っ気がなく細かな皺やシミがありながらも整った顔立ちにより凛として見えた。話し声はたおやかで聞き心地が良い。そのまろやかな声音で、ときどきエキセントリックな考えを淡々と話すのが特徴だった。言われてみれば、本屋と刺繍屋を長年営んでいる女性なのだ。一般的とは程遠いものさしで物事を捉えていても不思議はない。
 彼女は僕の周りの大人の中で、祖父の次に真実を持っている人だった。
「お疲れさま」
 半地下の階段を降りて店に入ると、開口一番そう声をかけられる。いらっしゃいでもこんにちはでもなく、〝お疲れさま〟と声をかけてもらえることで、大人の仲間入りをした気持ちになれた。大人になってその理由を問うと、
「だって、子どものほうが大人よりもずっと苦労してるじゃないの。決められた時間に学校に押し込められて、終わったら終わったで大人が決めた時間割で動くことを指示されてる。大変よね。お疲れさまね、という気持ちだったの」とおだやかな声で返ってきたのが忘れられない。

 さゆは白いワンピースをさらっと広げて、セーラーカラーになっている襟元の縁を指でなぞった。
「ここにお願いします」
 そうしてぺこりと頭を下げる。
「ええと、サーカスにちなんだモチーフであればなんでもいいんだっけ」
 頼りなげに僕が言うと、頭を上げてにっこりとした。
 彼女は数年前から、ライブ用衣装の刺繍を僕に依頼してくれている。費用はマネージャーのキサカさんから銀行振込で納品の翌日きっかりに振り込まれる。
〝お金なんて…。趣味なんだから無料でさせてください〟と最初に断ったが、キサカさんは譲らなかった。
「こういうところからきちんとしたいのです」銀縁の眼鏡を指で押さえて言う。
 僕は根負けして金額を提示した。
「それではこの金額を基本料金として、サイズや規模に合わせて追加費用をお支払いさせていただきますので」と彼は感情のない声色で言いながらも、口角を少し上げ柔和な微笑みを残してその場を去った。

「今度のテーマも前回と同じサーカスなのだけど、もっと広い敷地にもっと大きなテントを張って、その中でライブをするの。内容もサーカスを軸にしたまま大きく変える予定。前回できなかったことができるの」
 さゆは愛おしそうにワンピースを撫でながら言う。
「ずっとやりたくって構想を社長にもお話して、城阪さんが後押ししてくれて実現することになったの」
「足向けて眠れない存在だよね、キサカさんって」と冗談めかして言ったら、さゆはツボにはまったのか花が咲いたみたいに数分笑いつづけた。
 さゆの依頼で使う刺繍糸は必ず、おばさんの店で買うことにしている。ここ数年はおばさんに希望の色とイメージを電話で伝え、見繕ってもらったものを東京へ送ってもらうというテレフォンショッピングのようなスタイルを取っていたが、ちょうど良いタイミングなので大量に仕入れて帰ろう!と道中わくわくしていたことまですっかりと忘れていた。
 陽だまりの効力なのか、ただただ年齢のせいなのかは不問にして、僕はすっくと立ちあがった。
「行こう」
 さゆがおばさんの店へ行くのは始めてだった。ずっと行きたがっていたがタイミングが合わなかったからだ。最初で最後かもしれないと思うと胸が締め付けられる。なぜなら予定では来年の春に店は閉まるのだ。電話口でおばさんはさらりとそう言った。なんでも息子さんが別の事業用に使うのだそうだ。かなりの驚きと寂しさを覚えたが、彼女の年齢から考えると悪くない選択だと思った。

 さゆと連れ立って歩くとき、僕らはどんな関係性に見えるのだろうと度々思うのだが、彼女はそんなことお構いなしで楽し気にふわふわと歩いている。
 商店街の端に、その〝鈴木書店〟はあった。何の変哲もないどころか、ありふれ過ぎていて逆に新しいのではとさえ感じさせる平凡な店名は、亡くなったご主人が付けたらしい。自分の店には自分の苗字をつけたかったという至極分かりやすい理由だった。
 店を立ち上げた5年後にご主人が他界してからももちろん店名は変えず、刺繍コーナーを新たに設けたおばさんは人生の大半をこの店の中で過ごしてきた。本にとってはこの上ない環境の半地下ではあるが入口の分かりづらさや入りづらさ、なにより太陽光が少なすぎて今後の心身が心配だ…という理由で改装も経ている。これまで通り半地下であることに変わりはないが、普段彼女が座っているレジのスペースと裏のストック兼事務所のスペースだけはきちんと陽が入るよう、横長の窓が設置されたのが25年ほど前のことだ。
 僕が店に居場所をもらったのがちょうどその頃だった。地面すれすれに設置されている横長の窓が気になってそこからちょこちょこ顔を出していたとき、店内にいるおばさんと目が合って手招きをされた。学校では、商店街の外れにあることと謎の半地下であることで、おばさんのことを魔女と呼ぶ者がいるくらい、ミステリアスな場所だった。
 おそるおそるひんやりとした階段を下りて扉を開けると、店内は暖色系のライトで照らされておりどの本も整然と陳列されていた。大きな書店にあるような仰々しいポップのようなものはなく、おすすめのものは各通路の目立つ場所にさりげなく立てて置いてある。
 その時、ランドセルの側面に引っ掛けていた刺繍セット入りの巾着が、左右に身をふったことで大きく揺れ、立ててあった本を倒してしまった。いつもは見つからないよう中にしまっているのだけれど、その日はたまたま図書館で借りてきた本に占拠されていたのだ。
 急いで拾い上げ表面をささっと払って、 無意識に表紙に手のひらを当てる。兄のいない家の中で、刺繍と出会うまで僕は本ばかり読んでいた。実際はどこへも行けなくとも心だけはどこまでも遠くへ連れ出してくれる本たちは、自分にとって唯一無二の存在だった。学校の近くにある図書館に寄ってから帰るのが日課だった。
 刺繍と出会ってからは、兄の不在時には1分1秒でも長く縫っていたいので図書館に寄る頻度はかなり少なくなっていた。だが週に一度、制限冊数までまとめて借りてくる。その本の扉を兄や伯母たちが帰宅するタイミングに合わせて開くのが習慣になった。
 しかしそれではなかなか縫い進められない。そこで、見つからないよう外で行ない始めたもののやはり同級生に見つかることが増えてしまい、刺繍場所難民になり果てていた頃だった。きっとぼんやりとした目をしていたのだと思う。
 おばさんは僕に、〝特別だよ〟と自作のクッキーを分け与えてくれた。そして僕の巾着袋に目をつけてにっこりとした。
「素敵な刺繍ね」
 巾着には、おにぎりと水筒のモチーフを刺繍していた。 とても上手とは言えない仕上がりだが3日ほどかかった大作で自分でも気に入っていた。
 僕の大事な一部を肯定されたようで、胸がいっぱいになったのを覚えている。
「来てみて」
 奥へ誘われてついていくと、突然視界が色とりどりに染まった。
〝う、わあ…〟
 声にならない声をあげた僕を横目に、おばさんはほほほとふくろうのように朗らかに笑っていた。その日からその場所は、僕の心強いシェルターとなったのだ。

 さゆと店まで続く灰色の階段を下るのは新鮮な心地だった。
 最初に扉を開けてほしくって、最下段まで行くと彼女に先頭をゆずった。さゆはお姫様のようにゆったりと会釈をして、扉を開いた。その日は朝から驚くほどの晴天で、陽射しは午後までずっと降り注いでいた。地上と地下をつなぐ横長の窓からやわらかく流れ込む光のベールが、ちょうど良い塩梅で店内を明るく包んでいる。
 さゆは小さく感嘆の声を漏らしながら歩みを進め、不思議と前から知っていたかのように奥の刺繍コーナーへ向かった。そうして最後のコーナーを曲がったところで、あの日の僕と同じ声を出した。
 ふと視線をずらすと、レジの向こうでおばさんがあの頃のまま、ふくろうのようにふくよかに微笑んでいる。
 それからの時間はここ最近で最も尊いものだった。
 僕の少年時代をおばさんがゆったりと、時にブラックユーモアを交えながら話し、さゆが屈託なくけらけらと笑った。今回の刺繍の話にさしかかったとき、さゆは肩掛けにしていたポシェットからおもむろに自身の曲が収録されたカセットテープを取り出した。
「お耳に合うか分かりませんが…」そう言っておそるおそる手渡した彼女に、「新しい表現だね」と僕もおばさんも一斉に笑った。おばさんは受け取ったカセットを愛おしそうに眺め、慈しむように懐かしがっていた。そして、ちょうどカセットレコーダーを捨てずに取っているのよ、帰ったら早速聞くわ。と嬉しそうに言った。
 店をたたんだ後の生活について僕が尋ねると、彼女はのほほんとした口調で、
「日本を出ようと思うの。高跳びじゃないわよ。たしかに借金もそれなりにあったけど、一応息子がかなりの金額でこの店を買い取ってくれたし」と舌を出して付け加えた。
「どの国に行くんですか?」
 さゆが身を乗り出して尋ねる。
「まだ決めていないのだけれど、東欧のほうかな。色使いが好きなのよね」
 そう言って刺繍コーナーをうっとりと見やった。
 僕も東欧の色使いには独特の魅力を感じている。たしかイラストレーターのおかかちゃんが以前、東欧の絵本について、その魅力を話してくれたような気がする。
「もしかしてもう日本には…」
 いたたまれなくなって言うと、彼女は朗らかに笑んだ。
「ええ。今のところ移住後に戻ってくる予定はないわ。十分楽しんだと思っているし、余生は向こうの国で過ごしたいの。絶対に愉しいわ」

 その後さゆが刺繍コーナーの魔法にかかっている間、僕はおばさんに気になっていたことを尋ねてみた。
「ここにある本はどうなるんですか」
「近くの学校とか図書館に寄付する予定なのだけど、本当に手放したくない本は…」
 おばさんはそこでさゆの後ろ姿を眺めながら愛おしそうに目を細め、僕のほうに向きなおって言った。
「私にも姪が一人いるの。娘代わりの子がね。その子に譲りたいと思っていて。でも、本人にはまだ話していないのよ。もしかしたら小さな物置分くらいの量になるかもしれないし。何より彼女は東京に住んでいるから管理方法や冊数をきちんと把握した上で、一度会いに行って直接相談する予定」
 そう言って無邪気に舌を出した。
「どんな人なんですか?」思わず尋ねる。
「梅の木みたいな子」
 即答だった。
「梅の木?」
「そう。いつもきちんと自身を剪定して、筋道を立てて暮らしてる。誤解されてしまうくらいまっすぐで繊細な子なのだけど、とっても強いのよ」
 話しながらおばさんは、優しくて遠い目をしていた。姪っ子さんのことを思い浮かべていることが手に取るように分かる表情だった。
「そうだ。もしもあの子が引き受けてくれて、あなたが嫌じゃなければ、その生き残りの本たちに会いに行ってもらえない?」
 唐突かつ斬新な提案を受けて、僕は反射的に固まった。おばさんはその様子を見ながらけらけら笑う。
「冗談よ、なんて言わないわよ。私は本気。別に男女として引き合わせるわけじゃないから安心して。なんだかあなたとあの子、人間として合うような気がするのよ。もちろん無理にとは言わないから」
 おばさんの笑い声が耳に届いたのか、さゆが戻ってきた。梅の花のような色合いの刺繍糸を手にして。

 帰り道、彼女のおだやかなエキセントリック思考は健在だったとしみじみ思った。移住先の国でも電話は通じるだろうか。勝手も金額も違うがきっと通じるだろう…。そんなことを考えながら歩いていると、ふとさゆの存在を忘れていたことに気がついた。
「猫」
 そんなタイミングでさゆが呟いたのではっとして隣を見ると、まっすぐに道の先を見ている。白猫が一匹道を横切るところだった。のっそのっそと歩みを進めている四本足の隙間から、大きなお腹が揺れているのが見えた。妊娠しているのだ。
「…僕ね、猫を飼いはじめたんだ」
 白猫の様子を目で追いながら、なんでもないことのように告白すると、
「そんな気がしてた」
 と返ってきた。
「え?」
 驚いて左斜め下を見る。
「しお兄、なんだか猫っぽくなってるんだもん」
「ええ?」
 咄嗟に歩みを止めると彼女も止まった。
「気づかなかった?」「気づかなかった」
 呆然として答える僕に、彼女はきらきらと笑った。風はとっくに止んでいたが、その黒髪はいつまでもひらひらと左右に揺れていた。

 夕飯時に帰り着くと、兄も含め親族一同がリビングに会していた。
 僕らは目立たぬように合流して、祖母と伯母数名が腕をふるったご馳走にありつく。祖母の手料理は懐かしさが奥から湧き出るような滋養のある味をしていて、伯母たちの手料理はむせかえるほど濃い味つけなのですぐに区別することができた。
 一通り皆が食べ終わった頃合いで、ダイニングテーブルと簡易的に広げられた大判のちゃぶ台2台が脇に片付けられ、皆が部屋の中央に集められた。結婚をしている伯母の夫たちだけが、少し離れたソファに自主的に腰かけていた。
 輪の中央にある回転式のローチェアに、祖母はすっぽり収まるような形で座っていた。そのシルエットが、ここ数年で一回り程小さくなったことを思い知らされる。
 〝エンディングトーク〟と名付けられたその時間は静かに始まった。祖母はこの日のために自身で考えたという進行表を膝の上に広げ、そっと目を落とした。それにつられて皆も各々配られた資料に目を通す。
 まずはじめに〝直近の今後について〟という項目からだ。
「これは、命に係わる大きな病気や怪我、もしくは老衰によって完全な介護が必要になる前に進めておきたいことなの」
 祖母は前置きの言葉を添えてから、顔を上げ、皆の耳に正しく聞こえるよう朗々とした声で話し出した。
 彼女の直近の希望は、まだ意識があり体が動くうちに、自身が気に入った老人ホームに入居することだった。ここ数年で見学や体験入居までを終え、そのための費用も貯まったという。現在は仮予約をして、頭金だけ支払ったところだと告げた。誰一人知らされていなかったようで、部屋中からざわざわと戸惑う気配がした。
「そんな勝手に!」と何人かの伯母は声をあげたが、祖母は落ち着き払って続ける。
 1年後に入居できるよう断捨離を進めてきたが、残りの期間で完全に不要なものはゆずったり処分をして引っ越し準備を完了させる予定であること。この家は現在居住している伯母たちに均等に引き継ぐこと。そして土地と遺産の所有権は既に遺書として顧問弁護士に託してあることなどを告げた。
 相談というよりもはや通告だった。いずれにしても、これでよかったのではと思う。誰よりも合理的で一貫性のある祖母が選んだ終活である。あっぱれ!と、いつもの兄なら伯母たちのブーイングを遮って茶化していただろう。しかしその日はさすがに微動だにせず真剣な面持ちで聞き入っていた。
「私たちの意見や意向は聞き入れないということ?」
 既に結婚して家を出ている一番上の伯母が、皆を代表するかのように尋ねた。
「ええ。あなたたちには感謝してる。今もこれからもそう思ってるわ。だけど最期までこの家で面倒見てもらいたいという願望がない限り、私の人生はね、私のものなの。そしてこれはあなたたち一人一人にとっても同じことなの。選択は自由なのよ」
 それ以上誰も何も言えなかった。祖母は全員の顔を順番に見ながら、誰からも新たな質問があがらないのを確認すると、
「この日のために、お集まりいただいて本当に、本当にありがとうございました」と深々と頭を下げた。
 立派だった。年長者である祖母にかける言葉として相応しくないのかもしれないが、その一言に尽きた。
 しばらくして兄が立ち上がり、祖母に向かって「こちらこそありがとうございました。そしてこれからもよろしく。それでは帰ります」と言った。祖母は目にうっすらと光るものをにじませながら〝気を付けてね、紗世さんによろしくね〟と何度も何度も言いながら兄を送り出した。皆もうなだれつつ、兄の背中へお疲れ様、とか、またね、と声をかけている。
 兄は最後に僕の肩に手をかけて、「紗由をよろしくな」と言ってから踵を返した。
 残りの滞在時間はあっとういう間に過ぎ、翌日は夕方の便で東京へ帰るさゆを空港まで送った。今度の大きなワンマンライブが終わったら、次回は同じテーマで九州を回る予定だと彼女は嬉しそうに話して聞かせてくれた。〝まだ社長とキサカさんしか知らないのだけど、今度の東京公演で一定の数字が出せたら実現するの〟と彼女は凛とした表情で言った。
「そうしたら、また鈴木書店のおばさんに会いたい」と満面の笑みを見せ、〝どうか間に合いますように〟と小さな声で唱えた。
 優しい風が僕らの周りをくるくると回っていて、それは嬉々として尻尾を振る子犬のようだった。
「たらこちゃんによろしく」
 最後にさゆはそう言ってにっこりとした。僕もほほ笑んだ。きっと、僕の捉え方次第で目の前の世界は変わるのだ。

 帰宅してすぐに、部屋の窓をすべて開け放った。
 3日分のほこりが歓声をあげるかのごとく舞い踊って、順番に窓から外へ駆け出していく。久しぶりに独り暮らしの気分を味わおうとダイニングテーブルに腰かけてぼんやりとしてみたが、たらこグッズに占領されつつある部屋の中で、一人の頃の居心地よさを思い出すことなどできなかった。その滑稽さに一人きりでそっと笑った。
 編集長へ帰宅を告げる電話をする。彼女は手短な世間話を挟んでから「では1時間後に 」といって切電した。きっかり1時間後にインターホンが鳴ったので玄関で迎えると、そこにはひまわりのようなイエローのセットアップを着た編集長と、眠たそうな目のたらこがいた。
「日中も変わったところはなかったわ」荷物を次々に玄関へおろしながら彼女は報告してくれる。
「え、仕事お休みされたのですか?」
 僕の頓狂な声を聞いて、彼女は可笑しそうに笑った。すっかり目を覚ましたたらこがケージの中で目を爛々とさせている。
「遠隔カメラを買ったの。デスクで見てた」
「え?!」
 さらに甲高い声が出て、2人(1人と1匹)は同時に僕を見上げた。
「そんなものわざわざ買っていただいて…なんて言ったらいいのか。ご迷惑をお掛けしました…」
 いたたまれなくなりそう言ってから、少し大げさだなとも思った。彼女は僕の心の内を見透かしたのか、即座に片眉を上げて言い放つ。
「あんたね。 命ってのは、大げさで然るべきなの」
 その言葉に、僕ははっとした。咄嗟に編集長が数年前に話してくれた妹さんのことを思い出す。それは僕にとっても時折フラッシュバックするくらい衝撃的な事柄であった。

 編集長は妹さんと2人姉妹だった。ダウン症の妹さんは彼女にとって娘のような存在で、いつもそばにいてお世話をしたり、反対にお世話をされたりしていたそうだ。
〝わたしたちは補い合ってた〟と彼女はその時だけとても穏やかな表情で話した。
 物心ついてからは、いじめられがちだった妹さんを守るためにありとあらゆる格闘技を習い始めたそうだ。そしてそれぞれの場所でそれぞれに頂点をとるほど強くなった。試合で優勝したり昇格したりするたびに、妹さんに手を出したり口出しする者は自然と減っていった。
〝心が弱い者は、力が強い者に弱い。力が強く弱い者に弱い者は、だれよりも心が強い〟というのが当時の彼女の格言だった。
 そうして二人は大人になり、二人暮らしをしようという話になった。ご両親は心配したが反対はせずに受け入れたのだそうだ。その生活のほうが妹さんにとって断然良いはずだと。
 決められた時間に帰宅できるよう、彼女は公務員の職につき、先に一人暮らしをスタートさせた。慣れた頃の約3か月後に妹さんを招き入れる予定だったらしい。
 その頃妹さんは、姉に何かお礼をしたいと考えていた。母親に何がいいだろうと毎日のように相談していたらしい。自身の仕事や妹さんの転居手続きのことで目まぐるしい日々を送っていた母親は、具体的なことは答えずになにがいいだろうねえとだけ返事をしていた。それから妹さんは、花を贈ろう!とひらめいたのだそうだ。
〝線路わきに、すずらんが1房咲いているのを昨日見たの。お姉ちゃん、すずらんのこと、綺麗、本物を見たいって昔図鑑を見ながら言っていたから。絶対に喜びそう 〟母親は翌日の段取りなどを考えながら、半分うわのそらで、そうねと返事をしたという。
「それで、妹さんは…」
おそるおそる尋ねた僕に、彼女は肩をすくめて3秒ほど静止してから、
「死んだの」と言った。
 感情がうかがい知れない声色だった。右手に挟んだ煙草の先端から、ゆらゆらと煙が天井へ昇っていく様子を二人で眺めた。
 線路わきのすずらんは、 身を乗り出さなければ摘み取れないほどの傾斜のある土手に咲いていたのだという。立地的に利き手ではないほうの手で体を支えなければならなかった妹さんは、うまく摘み取ることができずにしばらく耐えた。だがいつのまにか走り寄ってきていた電車の突風で体勢を崩し、線路に転がり落ちてしまった。
 あっという間の出来事だった。
 編集長はそれから1週間近く自室に鍵をかけて引きこもり、 飲み食いもしなかった。大事になってから病院へ運ばれて、思い切り母親に右頬をぶたれたのだという。頬は一瞬で腫れあがって、口の中に大量の血の味が滲んでから、「ああこの人の腕力を受け継いだんだなとぼんやり思ったよ」と彼女は言って力なく笑った。〝あなたまで失うなんて耐えられない〟半ば悲鳴のような母親の声がしばらく耳から離れなかったという。
 それから彼女は公務員の仕事を辞め、兼ねてから興味のあった編集者という職についた。好きなことを仕事にして熱中することが、両親、特に母親へのせめてもの慰めになると信じて。
 編集長の右の肩にはすずらんのタトゥーが入っている。直視できるようになるのはいつになるか分からないけど、私はちゃんと受け取ったよという証にしたかったと、そう言った。
 この話になったのも、そのタトゥーをたまたま目にする機会があったからだ。普段、彼女が背中の出る服を着ることは絶対になかったのだが、ある日彼女のシャツのボタンが盛大にとれてしまうというアクシデントが起こった。本館で借りた資料を戻しに行く最中で騒ぎに出くわした僕は、ソーイングセットを持ち歩いていたこともあり応急手当をすることになった。ボタンは一番上の1つを除いて下まで盛大に取れていた。血の気の多い若手社員の喧嘩を仲裁している最中に引っかかったせいだった。その場で彼女に駆け寄りすぐに繕える旨を伝え、二人で移動したのだ。当時、本館と離れているあまり誰も使用しなくなった辞書部専用の喫煙所を使った。
 しぶしぶシャツを脱ぎ、タンクトップ一枚になった彼女の右肩には可憐なすずらんが一輪咲いていた。それを見て、思わず「素敵…」とつぶやいた僕に彼女ははっとした顔をした。
 普段おろしていた長い髪を、たまたまその日だけアップにしていたのだ。とても暑い日だった。すずらんのことを尋ねると、彼女は突然後ろポケットから煙草を取り出して火をつけた。それは、寡黙な語り部が自身を奮い立たせるために飲み下す一杯のウイスキーのように見えた。
 話し終えると、彼女は一息ついてから「あなた名前は?」と尋ねた。
「小野 志穏といいます」
「珍しい名前ね、って飽きるほど言われてきたでしょう」煙草の灰を落としながら言う。
「はい。そこまでがセットになってます。名乗るときの」
 彼女は口角をゆっくりと上げて笑んだ。あなたは、と今度は僕が尋ねる。
「遠藤 高菜。所属は芸能部と経済部」
「美味しそうな名前ですね」
 思わずうっとりして言うと、彼女ははっとしながらこちらを見て、
「もしかして、エンドウ豆と高菜ごはんを思い浮かべてる?」と言った。
「いいえ。エンドウ豆と高菜おにぎりです」と返事をすると、くはははっと豪快に笑った。
 言い直さなくったっていいのに、と言いながらさらにのけぞって笑う。彼女の両目の端に光るものを見つけて、僕は咄嗟に目をそらした。
 その日のことを、僕は一生忘れないだろう。
 誰よりも強い人には、 誰よりも強くなるだけの理由がある。

 編集長がおかかちゃんへ提案したのは、布製の絵本だった。それも、大人向けの塗り絵ならぬ刺繍用絵本。図案をおかかちゃんがデザインして、それに参考用の刺繍を施したりアドバイス的な文言を考えるのが僕。何も聞かされていなかった僕はその場で慌てた。編集者の枠を飛び越えて、これはもはや共作だ。自分で思う以上に慌てふためいていたのだろう。おかかちゃんが何度も、「おしおちゃん落ちついて!」と言ってくれる声がはるか遠くから聞こえた。
 提案内容を念入りに確認してもやはり、おかかちゃんの本ではあるが監修は僕という形だった。これまでそのような大役を経験したことがないだけでなく想像もしていなかった分、余計に驚きを隠すことができなかった。とても落ち着いていられない。
 編集長は何食わぬ顔でノンカフェインのブラックコーヒーを啜りながら、僕らの様子をにやにやして眺めている。そして、
「決まりね」とたしかな声でつぶやいた。

 その日帰宅すると、たらこはソファの上で眠っていた。
 ただいま、と声をかけようとしてのみこんでから、ピンク色のおなかを見つめる。
 出逢ったころに比べるとずいぶん逞しくなったその腹の表面は、今も尚あの頃のように気持ちよさそうに上下している。大きくふくらむけれど萎みすぎることはないやわらかな振り子。その柔らかくも力強い命のリズムがいつのまにやら、一人きりだった僕の生活を豊かに育んでくれている。
 空気が動くのが分かったのか、気づけばたらこの目はうっすらと開いていた。半分寝ぼけているようで、体勢はそのままにゆっくりとまばたきを繰り返している。そうして気が済むまでまばたきをしてから、首だけを持ち上げてこちらを見た。
「ただいま」
 そう声をかけると、湿ったピンク色の鼻をふんふんさせて面白くなさそうに首を元の位置に戻した。そっと近づきやわらかな腹の表面を撫でると、まんざらでもないという表情をして目を細める。
 実家から戻ってから、僕は率先してたらこに話しかけるようになった。おそらく彼女からしたら、冴えない男のくだらない世間話だと思うけれど。

21:00 帰宅/たらこに話しかける
21:30 入浴
22:00 夕食を兼ねたフリータイム
24:00 就寝

 これが夜のルーティンというか、最近の帰宅後の流れだ。
 ちなみに聞き役の時のたらこは終始寝っ転がっているだけだが、かまわない。
 きっかけは、空港で別れる直前のさゆの言葉だった。
「ねえ。たらこちゃんとお話ししてあげて。そう見えなくたって、彼女はずっと待ってる」
 反射的に、それがたらこの声のように聞こえた。これはさすがに妄想がすぎると思われるから誰にも言わないつもりだが、僕は本気でそう思っている。
 気づいたのだ。
 これまで感じていた、たらことの間にある溝は、確実に僕自身が堀り深めたものだった。なぜなら僕は彼女に対して〝どうせ猫だから通じない。どうせ猫だから懐かない。どうせ猫だから名前を呼んだって来ない〟どうせどうせをはらんだ気持ちで接していたから。今更反省して許されるかは分からないけれど、少しでもたらこの心が安らげばいいと願いながら生活を続けている。そうしてその日々が、僕自身まで穏やかで安らいだ気持ちにさせてくれている。
 そんなことを思いながら今日も、ピンク色のおなかと共に眠りにつくのだった。


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