「心臓病患者」と「内部障害者」を21年間生きてきた私の話

 私が初めて「人と違う」ことに気が付いたのは、幼稚園生の頃だった。幼稚園では、年度末に自分の描いた絵が先生から返されるのだが、私だけ絵が明らかに他の子に比べて少ない。当たり前だ。だって私は、幼稚園にほとんど通えていなかったのだから。

 生後5か月で「無脾症候群」という難病があることが分かった私は、5歳になるまでのほとんどの時間を病院で過ごした。生まれつき心臓が半分しかなかった私は、人工血管や馬の心膜で心臓をつぎはぎして、どうにか生き延びた。最後の手術から15年以上たっているけれど、その時の手術痕は、まだ私の胸に残っている。

 入院している間は、ある意味で快適だった。周りは先天性の難病を持った子どもばかりだったからだ。病棟にいる間は「みんな同じ」、常に具合が悪いという意味で横並び。私は人との差異に、気が付かずに済んだのだ。

 前述したように、幼稚園で人と違うことを知った私だが、病名を知るのはもっと遅かったように思う。病名が先行していたのではなく、病院で検査をしたり薬を飲んだりする自分の生活に、病名が後からついてきたような感じだ。

 幸いにも私は友人には恵まれていて、病気のことで何かを言われたりしたことは一度もない。体育では、長距離走などドクターストップが出ている種目でなければ概ね参加していた。運動会で椅子を教室から運び出さなくてはいけないときは、友人が手伝ってくれた。ありがたいことだと思う。

 普通に過ごせば過ごすほど、時折直面する「違い」が際立った。高校進学の折、入学早々私には担任の先生との面談がセッティングされた。自分の病気について説明するためである。
 泣きたくなった。というか、先生にも親にも、私がうっすら泣いていたことはバレてたんじゃないかと思う。結局私は、皆と同じようには生きられないんだ。私の人生は、全部病気を前提として進んでいくんだ。そう自覚せざるをえなかった。病気のせいで誰かから害されたことなんて一度もないし、説明しておかなければ後で自分が困る。隠す必要なんてない。頭ではわかっていても、説明する時間が、嫌で嫌で仕方がなかった。

 私は心臓病患者で、見た目では分からない内部障害者でもある。ぱっと見では、健常者と変わらないのだ。つまり、私が自己申告さえしなければ、私は「普通の人間」の皮を被っていられる。インターネット上であればなおさらだ。

 私はこのアカウントを開始する前に、一つ同じ名前で別のアカウントを持っていた。そこでは主に、持病のことを中心に書いていた。私がアカウントを削除してしまった関係でそのときの記事は残っていないのだが、書く前は相当に悩んだ。それは、上記のような経緯ゆえだ。

 別に頼まれてもいないのに、今こういう話題を扱っているのは、声をあげることをやめたくないと思ったからだ。まだまだ知名度の低い内部障害を、一人でも多くの人に知ってもらいたい。そう思って、私は今この記事を書いている。

 病気や障害は、決して私のアイデンティティではないし、個性でもないし、特徴でもない。身もふたもない言い方をすれば、ただ私の内臓が奇形だったというだけ。その内臓の問題は、私の人生全体に影響をする。病気は私の人生の一部ではなく、すべてにおける前提だ。

 病気のせいにしてしまえば楽だ、だがそれは心を弱くする。だから病気のせいにしないで努力しなくてはならない。こういう考えを持つ人がいる。私はその考えを否定はしない。ただ、同時に思うのだ。私は楽になってはいけないのか、私は弱くてはいけないのか、と。

 障害者は強くなくてはいけないなんて決まりはない。それでもメディアを飾るのは、前向きで強くて、挑戦的な障害者像。もちろん、すべてのネットの記事がそういうわけではないけれど、目につくのはそういう話題が多い。それも一つの在り方だとは思う。でも私は、私だけは、後ろ向きで、病気を恨んで、やたらと普通にこだわる、そんな私を認めてあげたいのだ。

 心臓病の子どもが大人になる上で要求されるのは、病気と折り合いをつけることだろう。当の私に、折り合いなんてついていない。多分、一生、折り合いなんてつかないんだろう。
 私がインターネットで延々と病気がらみの自分語りをするのは、「ネタになるしまあいいか」と思うためである。折り合いでも納得でもなく、諦めをつけたいからだ。

 心臓病患者と内部障害者を21年間生きてきて分かったこと。それは、どちらも大して綺麗なものではないということだ。

 一体何を言いたかったのか、分からなくなってしまったので、今日はこのあたりで切り上げることにする。

 本日もお付き合いいただきありがとうございました。