「私が現場の実務家教員とのネットワークを重視するわけ」ファッションビジネスの教育現場から #会社員先生に期待すること
私は現在大学教員という立場ですが、そんな人生を歩むとは夢にも思っていなかった!というのが正直な気持ちです。一般大学の4年生のとき、大手広告企業でバイトしている中、会社って面白いな!と初めて気づき、そこから就活を始めたという遅いスタートでした。当時は女性が長く働ける場というのは教師しかないと思っていて、中高教員免許(社会科)だけは取得していたのですが、実は「学校より面白い職場がある!」と知りました。その広告企業では女性が前面に出て子どもを生んでもバリバリと働いていたのです。
しかし、就職の内定を取るまでは超大変で、広告業界を希望しましたが、何社も落ちては泣き、落ちては泣き~と続く中、4年生の11月中旬になって、思いがけず大手繊維メーカーのファッション事業本部でご縁があり、就職することになったのです。実はファッションを専門で学んだこともない私が、どんな仕事をするのかもよくわかっていなかったのですが、ファッションは好きだったので、まぁそれで良いかと、4月から新卒として働き始めたわけです。
入社した会社はフランスの有名ブランドがメイン事業で、数百億円の売上がありました。それ以外に複数のブランドを新規に立ち上げる中、配属は「事業開発室」という部署でした。今思い出すと、さながらベンチャー企業のようでしたね。新進イタリアデザイナーブランド との契約3年目で、数人しかスタッフがいない中で何でもやらないといけない。
インポート品の生産状況の確認、倉庫に入ると製品の検品、下げ札、品質表示をつけ、受注先のお客様に商品を出荷する。サンプルが到着すると原価を見ながら値付けして、展示会の準備までにモデル撮影をする。当時は全国にあったインポート専門店への営業アシスタント、売掛金の回収もしました。プレスなんていないので、私たちでスタイリストへのサンプル貸し出しをして、雑誌のタイアップの撮影立ち合いをする。秋冬物の展示会が入社してすぐの4月末にあり、新人でも大阪出張で展示会のアテンドをしました。平行して、某百貨店のPBとして、このブランドの日本のライセンス展開を全国10数店舗で出店することになっていました。そのスタッフの増員や準備があり、さらに靴やバッグ、宝飾、時計などの日本の専業メーカーとのライセンス契約も決まり、新人の私が企画管理者となりました。ライセンシ―からのロイヤリティ収入計上の作業もしていましたので、経理の一部もやっていたりと、帰宅はいつも深夜でしたが、同期の多くの女子が事務の仕事だった中、本当に恵まれていたと思います。
本社はバブル期の六本木。今の六本木ヒルズのあたり。代官山の旗艦店の隣に一時期あった事務所で、
1年下の営業さんと一緒に撮った貴重な一枚。
昔から書類やファイルの整理整頓は苦手だったことがわかります~。(^^;)
女性が多数活躍する職場でした。上司の女性は、パリで10年イタリアで5年もファッションの仕事をしていたというバリバリのキャリアウーマン(今は死語?)で新卒の私は驚きました。社内で「プロント~。ボンジョルノ!」と毎日、イタリア語で電話をしているのを聞いている中、1年2年と経ったときに、「私もイタリア語を学びたい」と考え始めたのは自然な成り行きだったと思います。現地から届く企画書は全て、デザイナーがイタリア語で書いてあったので、辞書を使って単語を理解する必要もあるし、生産管理をしていく中でミラノの担当者とのやり取りはイタリア語が必要だったのです。
最初、団体レッスンで「日伊協会」のレッスンを受講しましたが、まだ中学生の英語までも行かないレベル。ところが、急にその年末、私の先輩が事情があり退社する中、いきなりミラノのサンプル買付けの仕事を任され、上司に同行することとなりました。まだ20代半ばだった中での抜擢に超緊張です!!年齢がばれますが、初めてミラノに出張に行く1月初旬、その日の朝は「昭和」が終わった日でした。成田空港で新聞を買ってフライト中に読む中で、まさに新しい平成への時代を感じていました。
現地では、私のイタリア語は全く使えず、こんなのではダメだと実感。翌年の夏休みに1か月間の長期休暇をいただいて(それも前代未聞の事例で社内は大騒ぎでした)がフィレンツェに短期留学をしました。
正直、想像以上にカルチャーショックのつらい経験でしたが、そこから学ぶものは大きかった。その後も個人レッスンに切り替えて会話レッスンをしていました。当時はメールがなかったので、毎日下手なイタリア語でFAXを書きました。すると、生産管理担当者のRinoFarinaという男性(半分女性だったが!)が喜んで、わかりやすい言葉で返事をくれるのです。毎朝、FAXの返事が届いているかな~とワクワクして出社したものです。
フィレンツェのホームステイ先で。
語学学校で一緒になったロンドンからの日本人と。
そのうちに、イタリア語をもっと勉強したくなりました。しかし、会社をやめて留学するのは実際には厳しいのと、自分の仕事への未練がまだありました。そこで、当時西巣鴨にあった、東京外国語大学に相談をしました。その結果、1年間を学部で研究生として聴講したのち、大学院に入学を許されたのです。地域研究というコースがあり、語学勉強が目的でなく、イタリア地域の文化や思想、歴史や経済などを勉強するという専攻です。ゼミ教授とも相談して、今の仕事を勤務を続けながら、それを生かしながら、イタリアの中小企業から生まれるMade in Italyの国際的優位性というテーマで、3年かけて修士論文を書き上げて修了することができまました。
ここから、私の研究者活動が始まったのですが、当然のことながら視点が学部からストレートに来た学生とは違います。社会や企業の仕組みはある程度理解した上で、企業が利潤を出すことの重要性、顧客が満足しなければ売れないという現実感などをもち、修士論文は複数のイタリアのアパレル企業への実地調査という実証研究が中心でした。のちにこの論文を元に本を出版することにもなり、私の中では、このまま研究者として進みたいという希望が湧いてきていました。しかし、人生というのはうまくいかないものなのです。
2000年に子どもを生んだのち、私の本意ではなく、長い人生の休憩タイムとなってしまったからです。当時の保育園はフルタイムでない仕事では子どもを預かってもらえない、一時保育もほとんどない、その上次々と両親が病気や介護の必要があり、ほぼ10年間は今勤務する大学の非常勤講師のみというのが現実でした。子育てや介護には学歴やキャリアや研究など何も役立ちません。必要なのは人間力!家事や子育てが苦手な私は、自分の無力感と自己否定感でいっぱいで、ママ友との関係も難しく、残りの人生は終わったものとして絶望感しかなかったです。しかし、この10年は、後から振り返ると人間的に大きく成長したとも思っています。「頑張れば成果が出る」ということではなく、時期を待って辛抱すること、未来の社会の担い手である子どもを育てること、どんな苦手なことでも継続すること、辛い日々でしたが、気づかないうちに忍耐強くなっていました。
その後、杉野服飾大学というファッション専門の大学で新しいコースを新設するために専任教員としてお声がかかりました。上司のコース責任者とはコース準備段階から、何回も案を作成し、未来のファッションビジネスを考える上で、現場とアカデミック性をクロスしたコースにしようと決め、当初は商学部寄りのマーケティングや消費者行動論などをメインにと構想していました。それを、現場で実際に運営している実務家の方に非常勤講師になっていただいたり、ゲスト講師になっていただくという形です。
ご存じの通り、非常勤講師というのは大変講師料がお安くて、博士課程を修了しても、日本の大学では研究者として生きていくのは厳しいというのが現実で、社会問題にもなっています。
そんな安価な金額でも実務家の方が引き受けてくださるのは、目的が人材育成だからです。講演をすれば、1回で数十万するような方でも、多くの方が熱心に取り組んでくださっているのは、業界の未来のためへの気持ちと、若い子の感性から新しいイマジネーションやイノベーションへのアイデアに結び付くかもしれないという期待からです。それも全て、社会の未来のためであり、「会社員先生」には大変感謝しています。
私自身がアパレル企業の「会社員」経験者であるため、教育現場と実務現場の乖離は大きいという印象は当初から感じていたため、もっと現場の臨場感を教えてあげたいというのが私の根底にはあります。それが、コースのコンセプトと繋がります。
2017年秋、想定外なことに上司が病のため、私がコース責任者となりました。最後に教授と打ち合わせをしたとき、ファッション業界の未来予想図を描いていく中で「ファッション×デジタルで進もう」と基本路線の変更で合意しました。当時、スタートアップでファッションテック系の企業が次々と立ち上がる中で、彼らと産学連携をしようと考え、当時はまだバズワードか?と思われていた「ファッションテック論」という科目名を申請して、翌年2018年からスタートさせました。
2015年から業界を探る中で、もともとデジタル系が好きな私は、当時まだ始まったばかりのECやSNSのデジタルマーケティング、ファッションテックのセミナーや勉強会に多数参加していました。実務家の講師の先生と名刺交換をしていく中、最初はぽつぽつでしたが、不思議なもので、そういうIT関係やテック系の方々は皆さんどこかで繋がっているのです。Facebookで友達になると、みんな共通の友達になっている。集まるのは渋谷であったり、原宿のwework iceberg であったり。そこに行くと自然と知り合いが増えました。3年経ったときには、15回の授業やゼミが組めるだけのネットワークになっていたことは、私のコース運営で大きな支えになっているのです。そんなお1人のヤプリの島袋孝一さんがnoteで記事を書いてくださっています。
大学教員というのは、教育と研究の両輪が必要なのですが、同時に提出する書類は膨大な量であり、締め切りに追われる毎日で、研究をする時間を捻出するのは大変厳しい現実があります。授業は毎日おろさかにできないしで、落ち着いて研究に取り組むことができない。日本の大学の大きな問題点となっています。
そういう環境の中で、私のコースコンセプトに共感してくださるネットワークがあったおかげで、教育と研究と両方が実現できていること、大変感謝しています。企業の皆さまのご協力があったことで、今まで教員としてやってこれたと思っています。
2018年にはSHIBUYA109エンタテイメントさんと一緒に共同研究を行いました。若いZ世代のライフスタイル調査をしていく中で、何度も授業内で学生と会話を重ねて、一緒に商業施設の未来図を描いていくという作業ができました。その結果は、企業のみならず学生の教育へのフィードバックにも貢献しているのです。
高校生のときに描いていた教師になる夢が、数十年後に実現したというのも、運命の輪の不思議だと思っています。そして、私自身が会社員出身の「会社員先生」であり、アパレル業界の一通りをの業務を経験していたことは教える立場になったときに大変大きかった。また、まわりで協力してくださる実務家の多くが「会社員先生」や「経営者」であり、こうして社会の仕組みを学ぶ教育をできることに感謝をすると同時に、ブランクであった10年を思いだすと、人生に無駄なことは一つもない!とつくづく思います。
人を大事にすること、それが私のポリシーでもあり、長い時間をかけてわかったのは、今のファッションビジネスの教育という仕事をするために私は生まれてきたのであり、それが運命だったのだと実感しています。
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