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”子どもが好き”という言葉へ感じること。

たとえば仕事の話をしていて「子ども、好きなんですね」と言われたときや、誰かが「わたし、子ども好きなんですよね~」と話しているのを聞いたときに、ちょっとモヤりとする。

いや、気にしないでもいいんだけどさ。
モヤり、モヤり。

めちゃくちゃ嫌な気持ちになるわけではないけれど、ただモヤモヤ。「子どもが好き」ってどういう文脈で言っているんだろう、「子ども」という存在をどう捉えて言っているんだろう、とふと考えてしまう。

そんなわたしにも「子どもが好きで」と言っていた時期はあった。おそらく大学生初めごろまではそう思っていたし、そう言ってた記憶がある。

しかし大学生になって子どものボランティアを始めて、幼稚園や小学校の実習に行き、先生になり、転職して今の仕事に就き、シッターの仕事も始めて・・・・と、「子ども」という存在とがっつり関わることが増えるにつれ「子ども好きなんだよね」とはあまり言わなくなった。

そう考えると、この言葉を誰が言っているのかでモヤっと度は変わるかもしれない。

たとえば、子どもとの関わりがベテランの域に達している人の、きっといろいろ見てきた上での「子ども大好き!!」という言葉と、子どもと日常的に接しているわけではない人の「好きなんです」は、印象がずいぶん違う。(日常的にがっつり関わっている人はあまり言わないかもなあ。)

誤解してほしくないのだけれど、わたしは「嫌い」と思っているわけではない。そもそも「好き嫌い」という軸で測ることにムズムズしてしまうんだと思う。

「子どもが好き」って、「大人が好き」と同じレベルの抽象度だと思う。でも「大人が好き」とはあまり言わない。それなのに「子どもが好き」って時々聞く。どうしてだろう。

「子ども」という存在が、大人よりも小さくて、かわいくて、笑顔いっぱいで、まっすぐで、純粋で。だから「好き」なのだろうか。

そういう子もいるだろう。でも「そういう子」というよりは、子どもの一側面に過ぎないと思う。決して一つの面だけでは言い表せない。それは子どもも大人も同じだと思う。

「子どもが好き」と言うときの文脈が、子どもという存在をひとまとまりにして、かつ限られた側面だけで捉えているような気がして、だからモヤっとするのかもしれない。

いろいろな大人がいるように、いろいろな子どもがいる。そもそも「大人」「子ども」で分けて考えるところから違うのかもしれない。一人ひとりみんな違う人だ。その中で年齢や発達に差があるだけなんだ。

わたしは一人ひとりをちゃんと見つめたいし、向き合いたいし、丁寧に関わりたい。それは相手が子どもでも大人でも変わらない。
そっか、大事にしたいことは誰に対しても変わらないんだ。

言語化するのがすごく難しいのだけれど、願わくば子どもを「子ども」として見すぎず、対等な「人」として接する人が増えていってほしいと思う。

もちろんまだ発達段階にあるから(年齢にもよるけど)、時に大人として教えたり、支えたりする場面はあるし、守られるべき存在ではある。

ただ、子どもは子どもで自分で育っていく力が備わってる。自ら成長していくことができる。だから一方的に何かを教えられ、与えられる存在ではない。

だから「子ども」と特別視しすぎず、対等な関係を築きたい。対等な関係の中で、学び合いながら一緒に成長していきたい。

人と関わっていると学ぶことがとっても多いなといつも思うけど、子どもからは特に学ぶことが多いと思う。なんでだろう。
反応が素直でダイレクトだからかな。
「子どもは大人の鏡」という言葉はその通りだと思う。自分自身がそのまんま映し出されるから怖さもあるけれど、気づかせられることだらけだ。

お互いに学び合える関係を築くことができれば、「子どもが好き」という言葉はそもそも出てこなくなるのかもしれないな…と思いました。

そんなわけで、今日はここまで。

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