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書く理由は、シンプルでいい

書く気持ちがぷしゅーっとしぼみそうになると、タイミングよく膨らませてくれる何かと出会うことがある。たまたまもらったコメント、たまたま出会ったnote、たまたま出会った本。自分の心が書きたいと思うことを書いていいんだと、シンプルで大切なことに立ち返らせてくれるように。

阿部広太郎さんの著書『心をつかむ超言葉術』。昨年の5月に出会い、言葉に興味をもつきっかけをもらえた。遠慮せずに書いていいのだと、後押しをしてもらえた。以来ずっと本棚にお守りのように並べている。誰かに「おすすめの本は?」と聞かれたら迷わずこの本を紹介してた。

紹介したお一人、よしみさんが本を読んでくださり、感想文を書いてくれた。

本に語り掛けられて、応援されて、頑張ろうと思えたのは、はじめての体験でした。読みながら驚いている自分に驚きました。

ここ、すごく共感しました。本当に語り掛けてくれる本ですよね。まるで阿部さんが横にいて、ニコニコしながらお話してくれてるような。優しく、そして力強く背中を押してくれる。

自分がおすすめした本が誰かに渡り「すごくいいね」と言ってもらえることはとても嬉しくて。自分がこの本を書いたわけじゃないのに。いいと思った世界観を誰かと共有できた嬉しさなんだろうなぁ。その世界観が、自分の中で留めておくよりほんの少し広がったことも嬉しさの一つ。

そして。よしみさんがTwitterでシェアしたnoteを阿部さんがシェアしつつ、なんと私にまで声をかけてくれた…!なんと!感激。大変お忙しいだろうに、イチ読み手を大切にしてくれる。真摯な姿勢に、頭が下がる。

もしかしたら「読み手」とは思ってないのかもしれない。前に阿部さんは「SNSでフォローしてる数は、心の中で握手できた人の数」と言っていた。なんてあたたかい定義なんだろうと感動した。だから、大変厚かましいかもしれないけれど、言葉を大切に扱う仲間みたいに思ってもらえてるんじゃないかって。(思ってもらえてたら嬉しいなという願望をこめて)

久しぶりに本棚に並ぶ『超言葉術』を手に取り、ぱらっとページをめくってみた。たまたま開いたページに載っていたのがこちら。

書いている時にこう思うことはないだろうか?
これを書いたら、誰かが何か言ってくるのではないか。
もしくは、これを書くことで誰かの役に立てるのだろうか、と。
(中略)
頭によぎる、顔の見えない誰かなんていないのだ。存在しない。そんな誰かを気にする必要はないと、僕は思う。

p216:「誰か」なんていない より

誰かに読んでほしい。誰かに喜んでほしい。

何かを書く上では自然な欲求なのだろう。

その気持ちが書くことに良い意味でエンジンをかけるならいい。でも、評価や見え方を気にしすぎて「こんなの読んでもおもしろくないかも」と書く前ににブレーキをかけるのはもったいない。

もう一つ。

あなたは何を書くべきなのか。僕はそれを提示することはできない。
あなたの感動は、あなたの中にあるからだ。

p223:「読み進めたくなる文章」の仕掛け より

私の感動は、私の中だけにしかない。誰かにその感動は見ることも、手に取ることもできない。だから書くんだ。

書かなければその感動が消えてしまうわけではない。心の中で大切に持ち続けることもできるだろう。けれども書くことで、より強く自分の中に残せる。そしてその感動が運よく誰かに伝わり、誰かの感動になるかもしれない。自分の感動をきっかけに誰かとつながる瞬間は、とても好きだ。

「感動」と聞くとものすごい衝撃を受けたときのようなイメージがするけれど、漢字を紐解くと「感情」が「動く」。感情の揺れを示すグラフがあるとしたら、線がガーンと上がったときだけじゃなく、微妙に揺れ動いているときや、もちろん下がっているときも広義では「感動」と言える。

そう考えると日常の中で感動はたくさんある。おいしいなと思ったごはんやお菓子。おもしろいなと思うアニメや漫画、本。楽しいなと思った誰かとのコミュニケーション。もちろん、モヤモヤしたり悩んだりすることもあるけれど。

感情が動く瞬間は一瞬だ。その瞬間を過ぎると、多くは忘れてしまう。強く大きな感動は心に残るけれど、日常で起きる小さな感情の揺れは、揺れたことすらなかったことになる。その感情たちは私を構成する大切な一部なのだから、日常の流れに飲み込まれてしまう前に、掬い上げて、残しておきたい。

そしてもし、掬い上げたことが誰かの目にとまって「いいね」と思ってもらえたなら、最高じゃないか。書く理由、これで十分じゃないか。


シンプルで大切なことに立ち戻れました。

よしみさん、阿部さんありがとうございました。




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