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評価は、文章を磨くためのヒントに。

noteを公開する前は、何が読まれて、何が読まれないのか、正直よくわからない。

時間をかけても読まれるとは限らない

おととい投稿したこちらのnoteが、最近投稿した中ではよく反応をいただいている。

読んでもらえたことはめちゃくちゃ嬉しいのですが、ほかのnoteに比べてどうして反応がよかったのか、よくわからなくて。笑

共感してもらえたのかな?とか、イライラしないことをポジティブではなくネガティブな側面からも捉えた内容ってあまりないのかな?とか、いろいろ考えてみたけれど。結局のところは、よくわからない。

けっこう勢いのままに書いて、修正もあまりしなかった。noteによっては何回も読み直して、微修正をくりかえして、何日も投稿を見送るような内容もあるから、それに比べると時間をかけて書いてない。だから、時間をかけたからといって、反応を多くもらえるとは限らないんだよな、と。

結局、何がヒットするかなんて出してみないとわからない。「これは渾身の作だぞ…!」と思って出しても、空振りする場合もある。あんなに時間をかけたのに…とがっくりくるけれど、自分の評価と、他者の評価は違う。どんな反応があっても、それはそれで現実として受け止める必要がある。

評価を気にしすぎない

ただ、自分でも予想がつかないのだから、他者評価(ここではビュー数やスキ数を指す)を気にしすぎない方がいいんだろうな、と思う。

いくら考えても、読んでくれる人の評価との間にはギャップがある。そのギャップをどうしたら埋められるのかを考えすぎると、苦しくなる。「読まれる内容はなんだろう?」という迷宮に突入していく。

最終的に「読まれること」が目的になっていくと、書くことそのものが苦しくなる。伝えたいことはなんだったっけ?がわからなくなる。

他者評価は目安程度に。それに一喜一憂しすぎない方がいいんだろうな。
と、こう思うまでの道のりも長かったけど。

やっぱり一喜一憂しちゃうよね。見てもらえて、反応をもらえたほうが、やっぱりうれしいし。

「量を書いた」と思えるくらいまで書いてようやく、評価は気にしすぎない方がいいらしい、と感じ始めてきた。(でも読んでくださっている方には本当に感謝しています。)

評価はヒントにする

一方で、もしも誰かに何かを伝えたいのなら、他者評価は「伝わっているかどうか」の一つの判断軸になる。私は自分が感じたことや考えたことを残しておきたい、書くことを通じて考えを深めたいという思いもあるけれど(=自分のため)「子どもの利益につながっていくような文章を書きたい」という思いもある(=人に伝えるため)。

だから、自分が伝えたいと思っていることが伝わっていないのなら、それは改善をしていった方がいいのだと思う。「伝えたい」はあっても「伝わっている」という結果がなければ、意味はないのだから。

それを測る一つの指標として、どのくらい見られているか(ビュー数)や、どのくらい反応がもらえているか(スキ数)がある。伝えたいと思って書いた文章のこれらが伸び悩んでいたら、誰にも届いていないことになる。であれば、どうしたら伝わるのかを考える。

伝えたいことを曲げる必要はない。伝えたいことを相手に伝わるように、どう工夫するかだ。「書きたいことと読みたいことの重なり」はどこなのか、よく考える。

まったく根拠がないけど、その重なりを見つけることはできる気がするんだ。むしろ見つけたい。伝えたいと思うことに信念があるのなら、伝わっていくための工夫はしていきたいと思える。そのためのヒントになるのが、他者評価だと思う。評価に翻弄されてしまうのはよくないけれど、適切に利用すれば、自分の文章を磨いていくことができる。

ただ、自分の分析にも限界があるだろう、と思う。

他者評価をヒントにしたとして、どうして読まれるのか、読まれないのか、分析して改善していく過程はすべて主観だ。そのとらえがまちがっていたら、永遠に伝わってゆく文章にはならない。

だからフィードバックをもらうことって大切なんだろうな。客観的な視点や意見。主観では気づくことのできない視点を、得ることができる。またどなたかにお願いをしてみようかな…。


そんなわけで、今日はここまで。



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