失ってから気付くこと

失って気付くことというのは本当にたくさんあって、
なんであの時気づかなかったのだろうと思うけれど、結局そうならないと気付けなかっただろうなとも思う。

時折思い出すことの中に、子供の頃母に連れられて買い物に行っていた商店街のことがある。
小さな商店街だったけど、当時の風景を思い出すと、あの頃は便利さはなくてもなんとも言えない温かみがあった。

スーパーもコンビニもない時代。
お肉はお肉屋さん、魚は魚屋さん、野菜は八百屋さん、欲しい物はそれぞれのお店に行かなければならない。今と比べたらなんて面倒なんだろうと思うかもしれないけれど、当時はそれが当たり前だったので、面倒に感じることさえなかった。
もっとも、私が子供だったからだけかもしれないけれど・・・。

個人商店ばかりなので、だいたいが家族経営。
だからいつ行っても、知ってる顔がそこにいる。そして

「こんにちは~!」

お互いに挨拶から始まる。

商店街には言葉のコミュニケーションがあった。
「今日は暑いわねぇ~」
「今日のおススメの魚は何かしら?」
「ありがとう!」

そもそも言葉を発しないと、ショーケースのお肉は買えないし、魚もパック売りではないから、言葉無しに買い物をすること自体が難しい。
言葉を発するということが自然な時代だったとも言えるかもしれない。

しかしそのお陰か、買い物はただ必要な物を手に入れる行為ではなく、
物を介して人と人がつながっているという感覚を自然に持っていた。
商店街にはそう思わせる環境があったように思う。

時代が進むにつれて、景色は変わった。
私が学生、社会人となるにつれて、商店街から徐々にお店が消えていった。
八百屋さんは最後の方まで営業していたが、棚に商品はほとんどなく、当時若かった息子主人が年老い、レジの横に座っていた光景を覚えている。
この店が時間の問題なのは一目瞭然だった。

変化することは仕方がないし、それが良いとか悪いとかではないと思う。
ただ、環境は変わっても本来本質は変わっていないはずで、コンビニやスーパーでの買い物も、売ってくれる人がいなければ、最終的には物を手に入れることは出来ない。

その人に対して挨拶することや、ありがとうの言葉をかけることはできたはずだけど、私自身いつの間にか無言で買い物をしていた。
お店の人は声をかけてくれているのに・・・。

そのことに気が付いたとき、なんだか自分自身が冷えてしまっているように感じた。
もしスーパーでもコンビニでも、相手が知っている人だったら何かしら言葉を発しているだろうけど、知らないというだけでこうも無言をつらぬけてしまうということ、無意識で自分がそうしていたことにショックだった。
便利さと引き換えに、なにか大事なことを忘れてしまっていた気がした。

環境の影響というのは思っている以上に大きい。
劇的に一瞬で変化するときは違いを明らかに感じることが出来るけれど、徐々に変わっていくことというのは、なかなか気づけない。
目に見えないものはなおさら気づくことが難しい。
何十年もたった今、あの頃当たり前にあった環境のすばらしさにやっと気づいたくらいなのだから。

無人レジもどんどん増えてきている。
何かをするときに、直接人と関わる機会は減っているかもしれない。
だけど、機械の向こうには人がいる。
なにかあれば、人の助けが必要になる。
人は人とつながらずには生きれないと思う。

思い出の商店街はなくなってしまったけど、その時にもらった大事なことは残っていた。だからそれを生かそうと思った。

そして私はレジの人に挨拶や、ありがとうの一言をかけることにした。
今は意識しないとなかなか出てこないけれど、いつか自然に発せられるようになりたい。
それは私自身の心の豊かさにもつながっていると思うから。


























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