社会福祉④
中里くん。
もちろん、本名ではない。
ここでは、中里くん、にして、出会いをかきたい。
わたしは、20代の前半、地域のゴミ屋敷や、地域の福祉を担当していた、今でいう、包括支援センター、その前段階、在宅支援センター、ちなみに、在宅支援センターは、いまでもある。
そのころは、ある市からの委託で、予算てきにも、病院併設の老人保健施設の在宅介護支援センターの専属職員は私だけだった。
ある日、電話が鳴った。
わたしが担当している地域の民生委員の方からだった。
町内の、ある男性、一人暮らしの家が、臭くて、ゴミも山積みだし、食事もしてないみたいだし、なんとかならないかしらね、と。市役所に電話したんだけど、こちらを紹介されたのよ、、なんとなく不服そうだった。理由はわからないが、市役所のほうが、存在感がおっきいからかな、とおもう。
わたしは、そのまま、内容をききとると、たまたま、予定があいていたので、自転車を走らせた。
中里くん宅は、すぐにわかった。先輩である彼に、くん、づけをすることを許してほしい。あとあと、わかってもらえるとおもう。
わたしは自転車をとめ、チャイムをならした。
返事はない。
部屋から、自宅からはみだしている生ごみ、荷物。悪臭。
周りからういていることも、いやでもわかる。近くを通る奥様に会釈をし、わたしは、姿勢をただして、再度チャイムをならした。やはり、留守なのか。わたしは、手紙と名刺をポストにいれ、出直すことにした。
翌日、時間をみつけて、伺った。
やはり、留守。
ふと、塀に、丸い形のものが、小さいものから大きいものまで、順序よくならんでいるのにきがついた。きれいに、ならんでいる。なんとなく、気になりながら、手紙をいれ、帰ろうとした。
そのとき、中里くんが、自転車で帰宅してきた。
おまえ!だれだ!
中里くんは、おっきな声で、わたしを威嚇した。わたしは、名刺をわたし、自己紹介した。
お前なんかに、用はない!
中里くんは、そういうと、スタスタ自宅にはいろうとした。手には牛乳と食パンらしきものが袋に入っている。これが、主食なのか、ふとおもいながら、細い体をみた。
はよ、かえれ!
中里くんは、わたしに、何度もそういった。
わたしは、またきますね、顔をみたいので、というと、自転車で職場に戻った。
緊急性でいうと、、どうだろ。
認知症の疑いがある、、などと、書き出しながら、これからの策を考えた。
ありがたくも、、わたしは、1人部署。経験は⑤年しかないものの、たくさんの人間にあってきた根拠のない自信が少しあった。専門家としてではなく、できそこないの専門家としての自負だ。はなしは、それるが、当事者さんとかかわるときは、あまりにもできる、机上の得意な知識は通用しない、人間として、専門家を捨てて、どこまで、せっすることが、胸の奥の声をききとれるかが、大切だ。
わたしは、何度も、訪問した。
そのたびに、わたしのことは、忘れているようだった。認知症の可能性が、かなりたかい。医療には、かかってはいない。一人暮らしだ。息子さんがいると、近所のかたにきいたが、どこにいるのかは、誰もわからない、今日もビニールには、食パンと牛乳だ。きっと、食事も、毎日、食パンと牛乳だろう。健康状態も気になるが、被害的にうけとられ、近所トラブルもあったようだ。
あるひ、わたしは、留守たくの、彼の自宅のまえで、ふと、塀にある、丸いものが気になった。なんなんだろ、、、
そのとき、中里くんが、自転車で帰宅した。なにやら、ポケットから、小さい丸いものをだすと、きれいに、塀にならべた。わたしは、チャンスだとおもい、ボールについて、ほめてみた。
中里くんは、わたしをはじめてみる顔だといい、うれしそうに、野球が好きなこと、選手になりたいことを、はなしてくれた。
そういうことだったのか。
わたしは、ヒントをえた。
翌日、わたしから、はじめまして、と、幾度となくあっている彼に声をかけた。彼は、こちらをみた。わたしは、介護士の制服に、紙で、監督、と大きくかいた、ものをはっていた。かれは、わたしに、はじめまして、と、挨拶してくれた。だます、わけではない、けっして、、ただ、介入する、彼との介入には、健康もふくめて時間がなかった、だから、わたしは、監督のふりをして、野球のはなしをした。かれは、自宅に招き入れてくれた。このときの、失敗は靴下を持っていってなかった、一歩はいるたびに、ビチャと足裏が濡れる。悪臭で吐きそうだった、けれど、自宅内のアセスメントをする。
いまなら、わかい、20代の女性を、スタッフといえども、男性の訪問にいかせないが、このときは、あまり、わたしの仕事のやり方に賛成さてもらえず、一匹狼だったので、こんな行動をしたが、絶対真似しないでほしいし、反省点でもある。
バスルーム、ゴミでうもれており、衛生管理できていない。
廊下、ものであふれており、虫がとんでいる。
台所、わずかではあるが、スペースがあり、どうやら、ここで生活しているようだった。
彼と、野球のはなしをした。私には殆ど知識はない。そんななかで、息子さんの話がでてきた。関東に家庭を持っているらしい。わたしに、孫の写真をみせてくれた、わたしの、介護士ジャージはズボンも、ベチャベチャだったが、介入させてくれたからこそ、これが、かれの実態生活なのだ。綺麗事ではすまされない。
わたしは、息子さんの住所をメモした。
最近は帰ってきてないらしい。何年も。
彼は久々の客のわたしに、お茶をいれてくれた。器は、少し便臭がした。一瞬躊躇ったが、わたしは、ひとくちのんだ。彼はとても嬉しそうなかおをした。
後日、わたしは息子さんに、連絡した。
息子さんは、謝っていた。きづきながらも、ほっていたこと。そして、すぐに、相談にきてくれた。わたしのところに。丁寧に菓子折りを持って、、。20年以上まえだが、息子さんが不安そうに、事務所をのぞいていた姿を私は覚えている。
すぐに、介護保険申請。
息子さんと、精神科受診、すぐに、アルツハイマーの診断がでた。
配食サービス。
いろいろな、伴走者が、彼の生活をささえた。
いまでは、なつかしい、反省も多い支援。
中里くんは、わたしをおぼえてはいない。
わたしは、監督、と貼って訪問したとき、
中里くん、わたしと、野球チームをしないか?
と、低い声で言った、あの日がなつかしい。
介入できない、課題はないと、彼からも教わった。丸いボールがならんでいたこと、長い人生、かならず、人間同士で、話ができる何かが存在する、、確信したケースでもある。
もう、亡くなったであろう、中里くん。
わたしの、なかで、いつまでも生きているケースの1つである。
またね、中里くん。
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