日常の写真を撮るということ
今日は雨です。
子供達とは「映画ごっこ」と称して映画を見る会をしています。ポップコーンを持って映画を見る会です。なんでもない日だけれど、なんでもない日が好きです。
日常の風景ってご家族様だけでは、本当の意味で誰も取れない写真だと思っています。
オムツを替えたり、ご飯の支度をしながらお子様とお話ししたり、いやいやするお子様をイキのいい魚を抱っこするかのように担いだり、髪の毛を乾かしたり結わえたり、絵本を読んだり、各々違うことをしていたり、、、保育園や幼稚園のお迎え、学校から帰宅したお子様を出迎えたり少しそこまでお迎えに行ったり、、、
でもそんな「日常」って未来の私たちからしたら心から懐かしい日常であると思いませんか?
我が家の子供達は年長と小学2年生になります。
赤ちゃんの頃は、早く大きくなってくれないかなと思ったりもしてたけど、今となっては誰も使わない哺乳瓶も、残った粉ミルクも、傷だらけのシリコンスプーンも、毛玉だらけのベビーブランケットも、シミがついた小さなスタイも、膝に穴が空いたズボンも、真っ黒になった靴下も、伸びきった自分の部屋着さえも懐かしく愛しく思う瞬間があります。
どんな生活をしてたっけなと写真を見返しては、いまの大切さと昔の愛しさでなんとも不思議な気持ちになりますが、そこに私はあまり写っていません。笑
ここで一つ、我が家の主人の笑えるエピソードを一つ。
昔々、水族館の大きな水槽の前で主人に「私と子供達との写真を撮って」と携帯を渡したところ、とっても綺麗に。とっても綺麗にです。
私と子供達の上半身のアップの写真を撮ってくれました。笑
画面には、子供達と私の顔がパンパンに蔓延の笑みで写っていました。笑
それはそれで愛しい一枚ですが。
そんなこんなで、私の写る写真はあまりないのです。
そして、私の生い立ちも少し。
私の実の母と父は、多分世界のどこかで誰かと何かと生きているとは思うのですが、色々と複雑な諸事情の末、かれこれ10年以上交流がありません。そしてきっとこれからもないと思います。ですので、私が私の幼い頃の記憶を確認する術は「写真」しかないのです。
父はカメラが好きな時期があり、それはとても綺麗な写真が私の手元に数枚残っています。ただその写真たちの、大半が私のソロ写真。時々何処かに出かけたのであろうカメラ目線の母との写真がほんの少し。父との写真はありません。
記録としての写真を見ては、父と母はどんな気持ちで私を育てていたのだろうと考えるときがあります。
きっと私が「その時の雰囲気や気持ちを残す」ことにこだわるのは自分の生い立ちが強く影響しているのだと思っています。
そんなこんなで、私は「日常写真」を残すということをずっと推しています。日常写真推しです。
お迎えから、寄り道しながらの帰宅路、夜ご飯のお支度にお風呂タイム、湯上がりと、いただきます、そして、おやすみなさい。
朝の外遊びから、帰宅してお昼ご飯、その中での授乳やお家遊びやお昼寝タイム。
今は、なんでもない一枚に思うかもしれないけれど、必ずそのなんでもない一枚は、未来の、遠い遠い未来の大切な一枚になると私は自分の人生を持って体感しています。
日常写真を撮られているカメラマンさんは関西、特に兵庫県ではいらっしゃらないように思っています(自分が撮って欲しくて調べただけなのでいたら教えてくださーいっ)
では私が。と大それたことを言うのもアレですが、、、もし、興味がある方は是非ご相談ください。
もちろんハプニングや場所が色々と変わる日常写真、そんな大役を私に!と言うからには、日々勉強。とっても尊敬しているカメラマンさんの個人指導をうまく行けば来月頃、受けさせていただけることになりそうです。とっても楽しみ。技術も感性も底なしですが、やっぱり未来への贈り物という誰かの人生に少しでも関わらせていただけるという責任はとても大きく、その時その時にお会いした方々の記憶に「幸せな一日だった」と感じていただけるように日々アップデートしていきたいと思っています。
さて、いよいよまとまらなくなってきたので(私の悪いくせ笑)HPの自己紹介にも記載している言葉で締めくくりたいと思います。
たった一枚の写真が、
忘れかけていた その頃の気持ちを思い出させてくれるかもしれない
すっかり忘れていた その時の感触 匂いまでも思い出せる
記憶がなくても かわりに写真が記憶してる
愛しい時間 愛しい日常 愛された記憶 愛した記憶
疲れた時に癒しをくれるような 泣きたいのに泣けない夜に 頭を撫ぜてくれるような
優しく叱ってくれるかもしれない 厳しく抱きしめてくれるかもしれない
「今」の大切さを思い出すような 「過去」の暖かさを感じるような
「未来」への勇気や希望を与えてくれるような そんな一枚を。