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「働く母親」に初めて罪悪感を感じた日

長男が産まれてまもなく4年が経とうとしている。
そのうち次男の出産育児で1年ほどは仕事を休んでいたわけだが、妊娠中も含め、その他3年は鬼のように働き続けた。

妊娠中なのにそんなに働いて大丈夫?
乳児育ててるのに、よくそんなに仕事するね

時には賞賛や驚き、時には心配や同情のニュアンスでそんなこともたくさん言われた。

どんなに泣かれても

まだ歩けもしない子どもを保育園に預け、働きだす私のことを「酷い母親だ」と思う人も世間にはいるかもしれない(私の周りにはそんなにいないが)。

実際、保育園での別れのシーンで泣いてすがられたなんて経験は私にも何度もある。

それでも、私はたった一度も自分が働き続けることに罪悪感を持ったことはなかった

むしろ、私は働くことで精神衛生を保っていたし、それは回り回って子どものためにプラスになると考えていた。
経済的に子どもを育てていくため、というのももちろんである。

だからこそ「ママー!!」と目と鼻をぐちゃぐちゃにしながら、私に手を伸ばし抱っこを要望する子どもをみながらも気丈に「じゃ、先生お願いします!バイバイ!」と手を振って、子どもと別れることができた。
毎度つんざくような泣き叫び声を聞きながら職場に向かったが、彼らは数時間もすれば楽しく遊んでくれるだろうという楽観的な気持ちで。

誰もいない保育園で

そんな私が、初めて罪悪感を感じたのは昨日の出来事である。

この4年間、フルタイムで管理職をやりながら子どもを育ててきたが、

職場から自宅が遠くなったこと
経験上最大規模のマネジメントをすることになったこと
夫がシフト制の勤務に変更になったこと

から、ついに業務時間を十分に確保できなくなり、初めて園の延長保育に申し込むことにした。

新年度初日の4/1。
私が彼らを迎えに行ったのは19:00すぎ。
コロナで延長保育を利用する家庭は激減しているらしく、残っている子どもはほとんどいない。

半分以上が消灯された園の一室で、子どもたちは楽しく遊んでいた。いそいそと準備を終わらせ、子どもたちに「帰るよ!」と声をかけたが、遊びに熱中して全く動かない。
無理やり強行すると癇癪を起こすので、しばし付き合うわけだが、勝手に色んな焦りを感じてくる。

今から家に帰って、ご飯も作らないといけないし(下準備は朝夫がしてくれてるわけだが)、お風呂も沸かさないといけないし、もうすぐ19:30…急がないと寝る時間すごく遅くなっちゃう…洗濯物も干したままだし、仕事の連絡もまだ返したいのに…

考えれば考えるほど焦燥感が募る。
「帰るよ!」の声は次第にどんどん強く荒いトーンに変わる。
最終的に長男がようやく部屋をでたときには、私は完全にブチギレていた。
さらに、やっとのことで準備が終わったと思えば、玄関に向かって歩く通路で突然の長男の「おしっこ漏れちゃった」宣言。

普段なら笑って対処できるとこだが、今の私にはそんな余裕がない。「え?何で言わないの。さっきあれだけ部屋にいたのに、そこで言えばいいじゃん!もう!!部屋戻るよ!!」
ため息をつきながらまた部屋まで戻り、着替えさせ、私はもうこの時点でうんざりしすぎて泣きそうになっていた。

ああ、もうなんか全部が嫌だ。

自転車にも素直に乗ってくれない。
乗ったら乗ったでずっと文句を言う長男に、私は大人気なくキレた。

「もう誰もいないねぇ?」という一言に
「長男が早く帰らないからでしょ!そりゃ皆いなくなるよ」
と最初から私のお迎えが遅くて、もう誰もいないのに酷い嘘をついて八つ当たる。

何が嫌だったんだろう。
子どものワガママなんていつものことだ。
結局私は、それを許容できない自分自身、そして許容できない環境をうまざるを得ない事実に腹を立てていた。

これじゃダメだ。
八つ当たりなんて最悪だ。と何とか自分を持ち直し

「さっきは怒ってごめんね。でももう遅いから、ママが帰ろうって言ったら準備して帰ろうね。ほんと怒ってごめん」

と謝ったかと思えば、今度はまたご飯は食べない!寝ない!と何度も辛い局面に対峙し、その度にまたブチギレ→反省して謝るの繰り返しで、完全に情緒不安定な夜を過ごした。

これから毎日これが続くのか…
私精神持つかな…
2時間かけて子どもたちが寝た後、夫もいない家で1人考え込んだ。

何に対しての「罪悪」なんだろう

それから私はずっと、自身の感情について考えた。

感じていた「怒り」の本質は上記で書いたように、子どもにではなく「自分自身に」であった。

結局私は「あるべき姿」とのギャップに勝手に怒りと苦しみを感じていた。

子どもと一緒に遊んであげるお母さん
一から美味しいご飯を作ってあげるお母さん
早くお迎えにきてあげるお母さん
子どもがどんなにワガママを言っても優しく接するお母さん

今の私には何もない。

元々「別に完璧に子育てをする必要なんてない」「気楽にやってこう」「人の家は人の家、我が家は我が家」という考えの自分が、こんな気持ちを抱くことに心底驚いた。

ああ、これが俗に言う働くことを選択した母親の罪悪感なのか。

しかし一方でこうも考えた。
「罪悪」って一体何に対してなの?

子どもと一緒に遊べない
ご飯を作れない、これらの先に続く言葉は「子どもがかわいそう」というものだ。

果たして本当に子どもたちはかわいそうなんだろうか。

子どもたちは、何も変わっていなかった

よく考えたら、私は勝手に早く帰りたいと焦っていたが、当の子どもたちはむしろまだ遊びたいモードで、まぁ一言で言うとすごく楽しそうだった。

10分で用意したご飯も美味しそうに食べていた。

寝る前の唯一の時間も、ずっとスマホを片手に仕事をしていた私だが、子どもたちは子どもたちでそれなりに楽しそうに遊んでいた。

寝るときは長男と次男で私の取り合いになり「ママだーいすき!」「ママ、プリンセス」「I love you」「手繋いで寝よ?」とひたすら甘えては、楽しそうにお喋りをしてくれた。

私は、私が感じた罪悪感の無意味さに気づいた。

何に対しての罪なのか?
そもそも現実的ではない理想に対して、勝手に私が抱いていた感情であり、この気持ちには「何のために」という目的の概念が欠如していた。

いやあえて言うなら、「いい母親であること」を目的化してしまっていた気がする。
当たり前だが、そんなことに価値はない。
本来のあるべきオブジェクティブは「子どもたちがいかに幸せか」なのである。

結局私は、目的を見失ったがために、勝手に怒りを抱えることでカオスに迷い込んでいた。
全く本末転倒である。

働く母親としての、決意

昨夜の子どもたちとの団欒時間。
私がずっと仕事をしていたのにはわけがある。
メンバーから今抱えている悩みや不安を告げる連絡が来たからだ。
私は正直にこういう気持ちを直接言ってくれることが何より嬉しかった。
その気持ちは心から理解できたし、解決に向けて一緒に考えたいと思った。
そこで私は子どもと遊ぶことは放棄し、全力でその連絡に時間をあてた。

結果メンバーは「真摯に対応してくれて嬉しかった」といってくれた。
イシュー自体はすぐに解決できることではないが、少なくとも本音で向き合った気持ちが伝わって私も安心したし、入社してまもない私にこんな連絡をくれたことも嬉しかった。

ちょうど時を同じくして、会社で四半期末に行われる同僚からのフィードバックで、メンバーが「私が入社してから圧倒的に全員の熱量が高まっている」と書いてくれた。
本当に嬉しくて、泣きそうだった。

私はこれからも色んなことを諦める

雑誌に載るようなキレイでオシャレな母親になることも、
インスタで賞賛されるような豪華な食事を作る母親になることも、
テレビなんか見せずに子どもとずっと遊んでやる母親になることも。

でも、諦めたことで得られたことはたくさんある。

私がこの数ヶ月、色んなことを諦めた結果、少なくともメンバーの信頼を獲得できる状況になっているというのは何よりの救いだった。

私は昨日、無意味な罪悪感を感じた自分の未熟さを心から恥じた。
「働く母親の罪悪感」とはよく使われるフレーズだけども、罪悪感の正体と私たちはもっと向き合わないといけない。

時に罪悪感とは、同情の言い換えとなる。
果たしてその対象は本当に同情すべき存在なのだろうか?勝手に自分が下に見ていないだろうか?

時に罪悪感とは、対象への不信頼を指す。
果たしてその対象を信頼していたら、私たちは安易な罪悪感を抱いただろうか?

時に罪悪感とは、逃げを正当化した言い訳になる。
本当に戦うことをやめてしまって良かったのだろうか?罪悪感という言葉でその場を濁してないだろうか?

罪悪感という自責のニュアンスの言葉でごまかしちゃいけない。
私は子どもたちにも、メンバーにも、夫にも常に真摯に正直に向き合うつもりだ。

全ての選択には目的がある。その目的に向かって邁進する時には、たくさんの障害が起きるだろう。でもそれを「罪悪感」という安易な感情で括るのはやめる。

そんな決意を固めた、新年度の始まりだった。


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