【記憶の街へ#7】卒業式、先生の告白
中学3年生の時の担任は、音楽のS先生だった。
よく通る太い声の40代くらいの男の先生で、スポーツ刈りに少し色のついたメガネという風貌は、ドラマの刑事か犯人かという印象だった。
S先生はその印象の通り怖い先生で、実際にはやらなかったものの、
「爪の下に安全ピンを刺すぞ」
などと脅し文句をいくつか持っていた。
今そんなことを言ったら問題にされるのではないだろうか。
高校受験が迫った1月だったと思う。
その夜、ボクは自宅で受験に必要な提出物を記入していた。
そこに不明な点があった。
翌日には提出しなければならない。
気が進まなかったが、ボクは仕方なくS先生の自宅に電話をかけた。
「…もしもし」
何回かのコールの後に、奥さんらしき女性が、ひと呼吸置いてそう言った。
「も、もしもし、夜分恐れ入ります。○○中学3年生の○○と申しますが、S先生はいらっしゃいますか?」
ボクは失礼がないようにと緊張しながら、一気にそう伝えた。
しかし、受話器の向こうからの返事は聞こえなかった。
ボクが不審に思い、もう一度「もしもし」と言いかけたその時、
「いません!」
という語気の強い言葉とともに、ガチャンと乱暴に受話器を置く音がした後、プーップーッと電話は切れた。
ボクは呆気にとられ、黒電話の受話器を眺めた。
翌日、学校で改めて不明箇所をS先生に訊ねた。
その時、昨夜の出来事を話してみようかとも思ったが、それは聞いてはいけないことだということは、中学生のボクでも分かった。
無事に高校受験も終わり、春が来てボクはたちは卒業式を迎えた。
体育館で式を終え、ボクたちは教室に戻った。
感極まって泣く女子、いつも通りを装っておちゃらける男子の声が教室に充満していた。
S先生はその音を目を瞑って黙って聞いている。
しばらくして目を開くと、
「みんな聞いてくれ」
と、自分に注目を集めた。
教室はシクシクという控えめにすすり上げる女子たちの発する音を除いて静まり帰った。
みんなS先生の言葉を待った。
怖い先生だと思ったが、ユーモアがあって、みんな嫌いではなかった。
音楽は三年間このS先生に教わった。
全校生徒で校歌を歌う時に指揮をとっていた姿が思い出される。
卒業してこの学校を離れるボクたちに、先生はどんな言葉をかけてくれるのか。
「もう、知っているやつもいるかもしれないが…」
ボクたちはじっと先生の次の言葉を待った。
先生はみんなの顔を眺めてからこう言った。
「先生は、3年○組のT先生と結婚することになった」
は?どういうこと?
「教師としてあるまじきことかもしれない。先生には妻もいましたが離婚しました」
みんな、どう捉えて良いか分からず、少しの間沈黙してから、少しずつ教室の中はざわついていった。
その後、S先生が何を話したのかは全く覚えていない。
ついでに言うなら、このインパクトが大きすぎて、卒業式のことも覚えていない。
軽蔑する気持ちも、祝福する気持ちも湧かなかった。
ただ、あの夜の奥さんの反応に合点がいった。
男と女の間には、当人同士にしか分からないことがある。
他人から見て誰が悪いとか言っても仕方がない。
今ならそうした機微も理解できる。
もし今、S先生と飲むことがあったら、ちょっとその辺りを聞いてみたい気もする。