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濁りが無いと美味しそうに見えない

私は良く、日本的な色には微妙な濁りがある、と主張しておりますが、布だけではなく、文化全般において、そう思っています。

日本どころか、諸国文化により違いはあれど、これは文化的人造物の一般論としてそうだとも・・・(日本のものは特に独自の湿度のある濁り要素が特性だと思っております)

例えば、昔の日本の磁器の肌あいや色には、少し濁りがあります。そのような器だとどんな飲食物と合わせても美味しそうに感じさせますが、新しい廉価な量産品に多い(安いものが悪いという意味ではありません)素材の純度や透明度の高い「キレイ過ぎる」器だと「乾いた食べ物」しか美味しそうに見えないのです。そのような器だとナマモノ・・・特に発酵食品や、動物性タンパク質のものは汚らしく見えます。

洋食器であってもそうで、例えば某有名西洋食器メーカーのBフルーテッドなど、器としては爽やかに美しいのですが、今出来のものは、使いにくい・・・キレイ過ぎるのです。だから、そのメーカーのSNSの広告で、そのシリーズの角皿にお刺身を乗せて宣伝しているものを「うわ、鮮度悪そう・・」と感じてしまいます。

それはまるでスーパーの白いプラスティックトレーに、お刺身を直に乗せて青白いLEDの照明を当てているかのように見えるのです。

しかし、アンティークの同じシリーズのものではそう感じられません。そこには、僅かな濁りや、ブレがあるからです。(古いものだと多少の蔵サビ感による濁りもあるかも知れません)

食べもの自体も、液体の一部以外では、あまり透明度が高く彩度の高い食べ物は「工業製品感」「薬品感」が出て、美味しそうに見えません。

(ただし、透明度の高いガラス製品は、食べ物も飲み物も美味しそうに見せる力があります。今回はガラスの魅力の話題には触れませんが・・・)

透明過ぎる、ノイズの無さ過ぎる「キレイ過ぎる人造物」と自然物とを合わせると、自然物のその「麗しい濁り」が悪く増幅し、生々しく見えてしまい、汚らしく感じてしまいます。生の食べ物ではそれが顕著です。自然物は、一見原色に見えるものでも実際にはいろいろな色が混じっていて、複雑なニュアンスを持つものだからです。

・・・そういう事が起こるのですが、なかなかこの「麗しい濁り・ノイズ・雑味」の話は、一部の作家さんが体感的にそうしている、という事以外では周知されていない気がします。

何にしても、純度を上げたり、透明度を高めるのは度を超えるとダメなんですね。もちろん透明度や純度自体が悪いわけではありません。

例えば、制作する作品の感覚的な透明感を出したいとしても、扱う素材が持つ固有の魅力を失わせてしまうほどに純度を上げてしまうとダメで、それぞれの個性を見極める必要がある、という意味です。

生き物にはノイズがあります。

自然物にはノイズがあります。

人間には、ノイズが必要なのです。

ある意味、ノイズに喜びがあるのです。


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